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【幕間】砂漠のコーヒー

 尻の下に冷たい石がある。  気がつくとアーロンは灰色の球体に座っていた。  いつからここにいたのだろう。アーロンは体を曲げ、自分が腰を落ち着けている石の球を調べた。直径は自分の身長ほどで、その三倍は高さがありそうな立方体の上に金属の輪で固定されている。  球体の表面にはみたことのない複雑な記号が刻まれていた。文字だろうか、とアーロンは考える。帝国共通語でも、辺境民が使う簡易文字でも、暗号でもない。装飾か記念碑だろうか。  それにしても、なぜ自分はこんなところに座っているのだろう。  手が勝手に動いて杖を探ったが、すぐになくしたのを思い出した。たしか竜に呑まれたときにはもう手の中から消えていた。  いったい、ここはどこだ。  空は重い灰色の雲がたれこめ、不純なガスの匂いがする空気が鼻につく。不機嫌な竜が喉の奥で唸るような響きがずっと続いている。竜はどこに? アーロンは球体に手をついて下方をのぞきこんだが、竜の姿はまったくみえない。かわりに自動軌道のような乗り物が石碑の前を移動した。軌道はみあたらないが、乗り物には間違いないようだ。中から人があらわれて、アーロンのいる石碑の前を歩いていく。  行政官の制服を着ているようにみえたが、上着の襟のかたちがまったくちがった。なんとなく目で追っていると、その人物はアーロンの背後にあった巨大な立方体――建物の中に入っていった。帝都に立ち並ぶ建築物のような装飾がない、すべすべの氷を積み重ねたような意匠である。  とにかくこの石から離れよう。アーロンは球体の上に立ち上がり、飛び降りようとした――が、できなかった。たしかに飛んだつもりなのに、足にロープでもつながっているように、元いた場所に引き戻されてしまう。  どういうことだ。俺はこの石に何らかの作用で縛られているのか? 何かの〈法〉が働いているのか。  苛立ちを抱えながらもアーロンはまた球体に腰をおろし、足もとに広がる光景を観察した。石碑の前は幅の広い道路で、ひっきりなしに乗り物が動いている。乗り物が通るたびに不純物の混じったガスの尖った匂いが上昇し、拡散する。すべすべした飾りのない建物は城壁都市を連想させたが、〈法〉が使われている気配はまったく感じられない。  ひょっとしたらこれは竜の〈法〉の仕業なのだろうか?  アーロンは右に左に流れる乗り物を眺めながらさらに考えをめぐらせた。エシュは竜が〈間隙〉を渡ると話していた。自分とエシュを呑みこんだ巨竜の口が、帝国ではないこの場所へ通じていたとしたら。エシュもこの世界のどこかにいるのかもしれない。  エシュを探さなければ。  その言葉が頭に浮かんだ瞬間、アーロンの足は球体から離れた。ところが地面へ飛び降りるのではなく、体はそのまま勝手に宙を高く跳んだのである。自分で方向を制御することはできなかったが、跳んでいるあいだは竜の背にいるようにこの都市の姿が俯瞰できた。  交差する道路の上に青や赤の光が灯り、乗り物の往来のほかに歩く人の姿もある。誰もアーロンに気づいていないようだ。前方に樹々のしげみがみえ、その向こうに彫像があった。両手をさしのべて天をあおぐ男の像の横に石柱が立っている。アーロンの足は石柱に着地した。  彫像の前に男が立っていた。やはり行政官の制服に似た上下を着て、手のひらにのせた光る板をのぞきこんでいる。赤い光が点滅している。  エシュ?  アーロンは声をあげそうになったが、まばたきしてもう一度観察すれば、男はエシュとは似ても似つかなかった。アーロンがいる方向を見上げながら赤く光る板を指で叩く。  そのとたんアーロンの視界は真っ赤に染まり、ぐるりと回った。転がり落ちるような衝撃が過ぎたあと、すぐ近くに男の顔がみえた。 『ディフェンス完了。アイテムをハックしました』  無機質な声が響いた。 『守護のメダイヨン。Sランク』  男は眉をひそめた。 「メダイヨンか。使い道があるのか? まあいいか」  アーロンの視界から男の顔が消えた。代わってあらわれたのは赤と灰と黒に塗りわけられた街路だが、アーロンには自分の体が消えてしまったように感じられた。しかし男が急ぎ足で歩きはじめるとアーロンの視界も動いて、さっき自分が着地した石柱がみえた。灰色だったそれは今、真紅の光に輝いている。  注意をそちらへ向けたとき、唐突にアーロンの心に理解が満ちた。まるで〈法〉を使って〈地図〉を習得したときのようだった。  この世界は真紅と漆黒が覇権を争っている。この男は真紅の陣営の兵士で、アーロンが着地した石柱や記念碑はどちらかの勢力の|拠点《ポータル》となるものだ。それぞれの陣営の兵士がポータルを攻撃し掌握すると、即座に色が塗り替えられる。個々の兵士の役割は、より多くのポータルを掌握し、ポータルで囲んだ領域を広げていくことだ。  なるほど、行政官のような服装をしたこの男も兵士というわけだ。エシュを連想したのはそのせいか?  アーロンの思考は断続的に響く呼び出し音に中断された。 『中井さん、今どこにいます? 鴨志田さんは?』 「俺ひとりでそっちへ戻ってます。レクの予定が急遽変更になったので」 『よかった。至急の応援がかかったんですよ。直接向かってもらえますか?』  ナカイ。  そう呼ばれた男に注意を集中すると、今度は別の知識が流れこんでくる。真紅と漆黒の陣営が覇権を争う表層の下に、この兵士が生きている世界があるのだ。  どうやら自分はこの兵士――「中井諒(なかい りょう)」と呼ばれる男が持つ〈装置〉に囚われてしまったらしい。  アーロンがそう悟るまでどのくらいの時間がかかっただろう。この世界は表面的には帝国にすこし似ていた。板状の装置は通信機のような役割を果たしているらしい。中井は早朝から深夜まで巨大な建物の中や外を行ったり来たりして働き、建物を出るたびに真紅のポータルにアクセスしては陣営を防御する。漆黒のポータルを攻撃することもあり、灰色を真紅に染めることもある。  アーロンが中井の服装をみて、帝国の行政官を連想したのはあながち間違いでもなかった。というのも、建物の中での中井の生活は、かつてセランに聞いた行政官の日常を強く連想させるものだったからだ。  もっともこの世界の官僚たちは帝国の行政官よりずっと忙しそうだ。この世界にも〈法〉に似た原動力があり、複雑な装置を動かしている。それでも中井とその同僚は早朝から深夜まで働いている。勤務中の中井はほぼ分刻みで仕事をこなしていた。上役の指示に従って記録を調べ、訊ねてくる相手と面会し、メモをとり、整えられた書類をつくり、呼び出しに応えて辛抱強く話を繰り返す。  しかし建物から一歩外に出たとたん、彼の心は素早く解放されて真紅や漆黒のポータルに飛んだ。そのときの表情にはどこかエシュを連想させるところがあった。  だから俺は彼の装置に囚われてしまったのだろうか? 考えてもアーロンに確たる答えは浮かばなかった。それでもこの男にはどこか、アーロンを惹きつけるものがあった。 「中井諒」はおなじ陣営の者と時々連絡をとった。アーロンは彼が装置を操作するたびに〈地図〉を習得するようにこの世界の仕組みを理解した。真紅と漆黒の陣営が覇権を握る争いはこの世界の「ゲーム」のひとつだった。帝国軍の戦略シミュレーションのような意味もなく、いってみればただの娯楽で、中井は行政官の仕事のあいまにこのゲームを遊んでいる。この世界に竜はいない。その代わり竜に似た唸り声を発する乗り物がいたるところを走り回っている。  それともこれは遊びではなく、不可欠な息抜きと呼ぶべきだろうか。何しろこのゲーム以外に何かをする余地は、中井の生活にはなかったからだ。  いや、正確には、完全に何もないわけではなかった。 『諒』 「……透」 『大丈夫?』 「今日は悪かった。急な用事で」 『いつもそうだな』  アーロンは〈装置〉の内側でこの会話を聞いていた。 〈装置〉に囚われている状態に慣れてしまい、どのくらい時間がたったのか、わからなくなっていた。しかし〈装置〉を操る人間のことはかなり理解するようになっていた。会話の相手が中井にとって重要な存在なのはすぐにわかった。それなのに中井は嘘をついていた。 「行くつもりだったんだ。ほんとに」 『起きれなかったんじゃないのか? 久しぶりの……休みで』 「ちがう」 『諒……』  声はすこし途切れた。 「透、どうした?」 『一緒に住まないか?』 「は?」 『前から考えていたんだ。官舎を出て僕のマンションに来ればいい。部屋はあるし、なんならもっと広いところに移ってもいい。そうすれば僕もきみをサポートできる」 「それは考えてもみなかったな」 『でも僕ら、なんだかんだで三年たつだろう?』 「三年たったら男同士でも同棲するものなのか?」 『茶化すなよ。心配なんだ』 「大げさだな。現代日本に住んでるんだ。どうにかなるよ」 『じゃあ、こういうのはどうだ? どうせ毎日自販機のコーヒー漬けなんだろう。一緒に暮らせば僕が毎朝淹れてやる』 「新婚生活か?」 『諒……僕はまじめな話をしているんだ。疲れすぎて返信もできないのはわかるけど、最近のきみの忙しさは異常だ。僕の家族もわかってくれる』 「透、無茶をいうなよ。俺はそういうのは……だめだ」  しばらく沈黙があった。 『諒、きみは時々すごくきついことをいうね』 「怒るなよ。そんなつもりはないんだ」 『怒ってない』 「怒ってるくせに」 『いや。ただ僕は……アカウントを消すことにする』 「え?」 『今きめた。きみから連絡がないからって、ポータルハックの生存報告を確認するのは疲れるし』 「透?」 『僕らはゲームの中でしかつきあってこなかったようなもんだ。でも僕はそれだけだと……つらい』  会話は唐突に終わった。うつむいたまま〈装置〉をなぞる中井をアーロンは内側から観察していた。中井の指はしばらくのあいだ〈装置〉の表面をあてどなくさまよっていた。ながいため息のあと、目尻からひとすじ涙がこぼれた。  どういうわけかアーロンの視界では、中井の眸にエシュの顔貌が重なってうつり、意識を揺さぶった。  俺はいつまでここにいるつもりだ。エシュを探さなければ。  そのときだった。ふいに強い衝撃がやってきた。中井が〈装置〉を床に叩きつけたのだ。頭の天辺をもちあげられてぶらぶら振り回されるような感覚がアーロンを襲い、結晶が砕け散るように真紅と漆黒がバラバラに散らばった。得体のしれない力に引きずられるようにアーロンは〈装置〉から抜け出した。はずみのついた体が弾丸のように虚空を跳び、そのまま上へ向かっていく。

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