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【第3部 翼の定位】1.暁闇

 さっきから、俺の顔を何かが擦っている。  くすぐったい。夢うつつで目を閉じたまま俺はそいつを手の甲で払いのけようとした。皮膚をなぞる感触は一度消えたが、また戻ってきて、俺の鼻のあたりがむずむずする。チクッと刺されたような感覚が走り、俺はついに目をあけた。鮮やかな黄緑色が顔のすぐ上で宙に舞った。葉っぱを束ねたような、奇妙な翼があわてたように羽ばたき、パタパタと軽い音をたてながら飛んでいく。 「なんだ?」  あたりは薄暗く、水の匂いがした。俺は体を起こそうとしたが、片手以外は動かなかった。首をそろそろ曲げて自分自身を確認する。俺は帝国軍の装備のままだ。  胸のあたりに軍服の肩がみえた。俺の体に重なるように倒れている。  もう一度目を閉じ、深呼吸した。  俺は――エシュ。また転生したわけではないらしい。  俺が俺のままであることに安心するなんておかしな話にちがいない。でもついさっきまで俺は奇妙な夢をみていた。いくつもの時の流れを繰り返す夢……。   もう一度目をあける。俺の上で倒れている男は生きているのだろうか? そのはずだ。石のように重く感じるのは意識が戻っていないからだ。それでもおそるおそる、自由に動く片腕をのばして短髪に触れる。首が傾き、顔の一部がみえた。  アーロン。  ひたいに触れただけでわかってはいたものの、俺は安堵の息をついた。ところがそのとたん、さっきの夢の記憶が一気に蘇ってきた。いや、あれは夢ではなかった。俺は別の空間に閉じこめられていた。透明な泡のなかで、あり得た時間の流れをいくつもみたのだ。  心臓が大きく跳ねた。アーロン。アーロンは、俺が生まれていた世界のアーロンだろうか? 俺を知っているだろうか?  呻くような声がきこえた。上に倒れていた男が動き、ずるりと俺の横へ転がるように落ちる。自由になった俺の両足は痺れて疼いたが、男の腕はまだ俺の腰をつかんでいる。もがくように、さぐるように俺の背中をさする。 「エシュ」  ささやく声と同時に、息がとまりそうなくらい強い力で抱きしめられた。 「……エシュ」 「気がついたか」  俺もアーロンの背中に腕を回した。アーロンは俺を知っている。心の底からほっとしたのに、アーロンの眸にまっすぐみつめられるとひどく気恥ずかしい気分になった。  俺とアーロンは土の上に横たわっていた。水の匂いと植物の匂いがする。空気は湿って暖かい。ひたいからしずくが垂れて、俺は自分がびっしょり汗をかいているのに気づく。この気温に寒冷地仕様の装備は不似合いだ。 「ここはどこだ」  アーロンがそういった。俺たちは同時に体を起こした。 「わからない。俺もたった今気がついたところだ」 「怪我はないか?」 「ああ。問題ない」  頭上を覆うのは木の葉だった。薄明かりに浮かぶ植物のシルエットは俺がみたことのないものだった。この気温も俺には経験のないものだ。辺境の山地はこんなに湿っぽくないし、こんなに丈高く木が生い茂ることもない。ふりあおぐとずっと上にやっと空がみえた。白みがかった夜明けの色だった。  俺とアーロンがいたところだけがぽっかりと丸く――円というより球状に――樹々の枝や下生えの草がなぎ倒され、押しつぶされている。俺たちは上から落ちてきたわけでもないようだ。突然この森に出現したらしい。 「ここには〈法〉を感じる。杖があれば……」  アーロンの言葉に俺は眉をひそめた。 「ここにはって?」  アーロンは慌てたように首を振った。 「なんでもない。夢のせいだ。さっき目を覚まして……おまえの顔をみる直前まで、〈法〉が存在しない世界にいる夢を見ていた」 「〈法〉がない世界?」 「ああ。あたりを奇妙な乗り物が動いていて、俺は意識だけになって装置に閉じこめられていた。おかしな話――」アーロンは急に言葉を切り、ぎょっとしたように目を見開いた。 「あれはなんだ? 木の葉?」  俺はアーロンが指をさした方角をみた。風もないのに、太い樹の幹を囲むように鮮やかな黄緑色の葉がひらひらと舞い上がる。上の方は丸く、細長くのびた先端は尖っている。一枚一枚は手のひらに収まるほどの大きさだが、思わず走り寄ったとたんに擬態の目くらましが解けて、葉っぱは無数の羽ばたく翼に変わった。 「これは……」  アーロンがつぶやく。幹を取り囲む生き物の翼は小枝に茂る葉のかたまりにそっくりだ。目を覚ましたとき俺の顔をつついていたやつと同じ生き物だ。いったい何匹いるのだろう、次から次に幹を取り囲みながら上へあがっていく。黄緑色の擬態した翼を目が痛くなるほど凝視していると、信じられないくらい小さな鉤爪とまぎれもない竜の頭がちらりとみえた。 「まさか、こいつは竜か?」  ふりむくとアーロンは顔をしかめている。 「見たことがない」 「俺もだ。あの擬態はまるで……リーフィシードラゴン……」 「リーフィシードラゴン?」  アーロンの怪訝な声をきいて俺は気づく。この名前は俺がエシュとして生まれる|前《・》に生きていた世界のものだ。リーフィシードラゴンはタツノオトシゴの仲間で、陸ではなく海に棲み、海藻に擬態して水の中をただよって生きる。しかしアーロンに何と説明する? 俺は肩をすくめる。 「いや、なんでもない。こんな竜はみたこともきいたこともない。ここはどこだ?」  俺たちは同時に頭上をみあげる。ふわりと涼しい風が頬を撫で、さわさわと木の葉が鳴った。俺は汗で濡れた体を意識した。今が夜明けならこれからもっと暑くなるだろう。  急に喉の渇きをおぼえた。ここがどこかを知るまえに、俺たちは生きのびる必要がある。

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