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【第3部 翼の定位】2.玉響
エシュが上着を脱いだ。
防寒用の内張りを外して畳んで丸め、手近な岩の上に置く。二人がいる森の空気は暖かく、湿度も高かった。手のひらで汗をぬぐうエシュの隣でアーロンもボタンを外し、同じように脱いだ服を畳んだ。エシュはズボンの裾も折り返している。滲んだ汗がエシュのうなじから背中に流れる。みつめるアーロンは状況に似つかわしくない欲望を覚え、そんな自分を内心で叱った。
ふたりが竜に呑まれたのは冷涼な気候の山地からさらに上に登った岩山だ。今いる場所がどこだろうと、あそこから遠く離れているのは間違いない。アーロンを取り囲む樹木の梢はずっと上にある。隙間に見える空はやっと明るくなりはじめたばかりだ。
「まずいな。樹が茂りすぎて方角がわからない」
エシュがあたりを調べながらいった。
「日が昇れば手がかりもふえるだろう」
アーロンはそういって軍服を置いた岩からの歩数を数えた。並び立つ樹々はみな同じように見えたし、いちばん太い幹を取り囲んでいた生き物――竜?――が植物そっくりだったのも気がかりだ。
目覚める直前までみていた夢の世界とちがい、ここには〈法〉の存在が皮膚にヒリヒリと感じられる。そこまで考えてから、アーロンはふとこれまで自分が〈法〉を肌に感じる空気のようなものと感じていたか、不思議に思った。自分に〈法〉が使えることは予備学校に入る前に家庭教師に保証されていたし、士官学校で最初の法道具を与えられてからはずっと、〈法〉と〈地図〉に熟達する努力を重ねてきた。しかしこんな風に〈法〉を気配として捉えたことはない。
この土地にそんなことを感じさせる何かがあるのか、それとも俺自身に異変が起きているのだろうか?
「エシュ、離れるな。ここでおまえを見失うのはごめんだ」
「わかってる。水場を探そう。その前に用を足す」
エシュは太い樹の幹の向こうへ回った。木の葉のような生き物が取り巻いていた樹である。雫が落ちる音にアーロンも尿意を思い出したものの、「うわあっ」という叫び声を聞くとひっこんでしまった。
「どうした!」
エシュは樹からすこし離れたところに立ち、地面を指さした。下生えにかかった水しぶきに青い金属光沢を放つ生き物が三匹群がっている。両腕で抱えられるほどの大きさで、ずんぐりした首に丸い背中、四肢は短く、上を向いた尾の先端がくるりと巻いている。
「これも竜だ。まさか尿が好物なのか?」
エシュは呆れたようにいい、膝をかがめて覗きこむ。
「気をつけろ!」
「大丈夫だ。俺たちには興味がないらしい」
その通りだった。青い鱗の小さな竜はふたりに目もくれない。
「どこから現れたんだ?」
「わからん。急に湧いて出た。アーロンも気をつけろよ。まったく驚くぜ」
面白がっているような響きだった。アーロンはいつのまにか周囲が明るくなっているのに気づいた。エシュの顔がはっきり見える。黒髪のなかに金色の一房が浮きあがり、屈託のない笑みがこぼれた。アーロンは学生時代を思い出した。あの頃のエシュはよくこんな笑顔をみせたものだ。
「日が昇ったようだ。歩いてみよう」
エシュの右手がひらめくように動き、樹にまきついていた蔓を切り落とした。葉をむしってできあがったロープで脱いだ装備をまとめて背負う。
「おまえの上着を濡らしても文句はいうなよ」
アーロンに流し目をくれてそういった。
「そのナイフは?」
エシュは一瞬答えにためらったようにみえたが、軽く肩をすくめた。
「私物だ。なくなっていなかった。でもちょっと変だ」
「何が?」
「柄の彫刻が消えている」
折り畳まれたナイフの柄は黄色がかった骨の色で、なめらかな光沢を放っている。蔓を切り落とした樹にエシュはしるしを刻みつけ、ナイフをしまうと上を見上げた。
「人間向きの道はなさそうだが、まずは水場だ。沢か泉……」
空気は湿っているのに水場を探すのは骨が折れた。樹の根や下生えをかき分けて進むあいだに森はさらに明るく、暑くなった。エシュは太い樹に遭遇するたびにしるしを刻んだ。足音を立てないエシュの歩き方はこの見知らぬ土地でも変わらなかった。
ついにかすかな水音がきこえたとき、アーロンはほっと息をついた。
「こっちだな……あった!」
嬉しそうなエシュの声が響く。絡みあうように生えた若木を押し分け、邪魔な小枝をナイフで刈って、ふたりは大岩に囲まれた泉のほとりに立っていた。すこしだけ周囲より高く、泉のこちら側――アーロンとエシュのいる方角だけ、樹々が途切れてひらけた空間になっている。日の光が眩しく岩に降りそそぎ、泉が流れ出す先は小さな滝になって、岩のあいだをくぐり抜けていく。
エシュが岩の上で膝をついた。手のひらで水をすくい、味をみるようにすこし飲んだ。
「うまい」
アーロンもエシュの横にならぶ。泉の水は翡翠色で、水音から想像したより大きい。乾いた唇にはひどく甘く感じられる。アーロンはひざまずいたまま、顔を洗おうと両手に水を掬った。ところがエシュは背に負った荷物を岩の上に放り出し、服を脱ぎはじめた。
「水に入るのか?」
「もちろん」
エシュはアーロンの懐疑的な視線をものともしなかった。たちまちズボンも肌着も脱ぎ捨て、下履き一枚で翡翠色の水に両足を沈める。パチャパチャと水しぶきがあがったと思うと、あっという間に泉の中央に浮かんでいる。
「ふーっ、冷たい。アーロンも来いよ。気持ちいいぜ」
アーロンは澄んだ水の中にぼんやり浮かぶ裸身から目をそらしたが、水浴びの誘惑には逆らえなかった。泉の底が足に触れたのは岩のそばだけで、その先は急に深くなった。泳いでエシュの近くまで行くと、泉の奥に大きな岩棚があるのがみえた。
「洞窟があるようだ。道のようにもみえる」
エシュがいった。水面に仰向けに浮かんでいる。 首のまわりに黒髪が広がり、水の動きにあわせて揺れた。
「行ってみるか?」
「もしあっちに進むなら服を持って行った方がよさそうだ。その前に食い物だろう。アーロン、さっき俺の小便に寄ってきた竜、食えると思うか?」
アーロンは顔をしかめた。
「どうかな」
「そんな嫌そうな顔をするなって。竜嫌いめ」
飛んできた水しぶきがアーロンの眉間にあたった。エシュの指のあいだから的確に放たれたのだ。
「お、やった! 命中!」
「この…」
アーロンの応戦は反射的なものだった。間髪おかずエシュは頭から水しぶきをかぶっている。
「ハハハハハ、馬鹿力め」
水面からエシュの頭が消えた。水中で腰を引っ掴まれたアーロンはエシュを振り払おうとしたが、水の抵抗のなかで絡みあった腕と足は格闘とも抱擁ともつかないものになり、いつのまにかふたりは浮かんだまま抱きあい、唇をあわせていた。ついばむような短い口づけを何度も繰り返し、濡れた頬と頬を重ねる。お互いの存在を確かめるように。
泉からあがると、暑い空気と日差しがたちまち肌を乾かしていった。泉で喉は潤せたが、今度は空腹が忍びよってくる。
「こんな気候なら実のなる樹くらい生えているんじゃないか? 太陽があるうちに火を起こそう」
そういったエシュは濡れた髪をまとめようと苦心していたが、結局あきらめて肩の上に落ちるにまかせた。
ふたりは少なくとも今日のあいだは泉から遠くへ行かないことで意見が一致した。アーロンは野営のために石を拾って岩の横の地面に積み、エシュはナイフで細い樹を刈り倒し、枝を切った。森の植生は強い太陽の光をあびて旺盛な生命力を示している。アーロンはエシュとふたりで石積みの上に刈った枝を並べ、中央左右に柱を立て、梁をわたして蔓で縛った。エシュは森の中から幅がひとかかえもある巨大な葉をたくさんひきずってきた。葉を梁にかぶせて屋根をつくり、残りを枝の上に敷き詰めると即席のテントができあがる。
作業のあいだも、アーロンとエシュがこれまでみたことのない生き物が続々とあらわれた。ほとんどが手のひらほどの大きさで、色彩もさまざま、頭の形や鉤爪、尾などの特徴をみるかぎり竜の一種に思えるが、これほど大きさや外見が多様なのは〈黒〉の変異体顔負けだ。
「一匹狩りたいけどな……」
エシュは太陽をみあげた。「ここの気候は読めない。火を作ろう。火口を探してくる」
森に消えたエシュが戻ってくるまでには時間がかかった。アーロンは泉のほとりに座り、動かない水面をぼんやりみつめた。空腹がつのってくる。今日腹に入れたのはエシュが森でみつけた小さな果実の房だけだ。とはいえ食べられるものがみつかっただけでも幸運ではある。
背後で物音がきこえ、アーロンはエシュが戻ってきたと思ってふりかえった。しかしそこにいたのは竜だった。黒っぽい鱗に覆われ、ずんぐりした体形に長い首。アーロンの膝ほどの高さしかないが、この土地でみたものの中では最も大きい。アーロンはその場に硬直した。竜の丸い眸がアーロンをみつめる。
また、カサッと物音が響いた。反応する速度は竜の方が速く、目にもとまらぬ速さで森の中へ消えてしまう。両手に何かをつかんだまま、エシュが怪訝な顔つきでアーロンをみていた。
「どうした?」
「竜がいたんだ」
「そうか」
エシュはあっさりそういっただけで、アーロンの横に座るとナイフで持ち帰った枝を削りはじめた。
「それで火を起こせるのか」とアーロンはたずねた。
「ああ。しかしずっとやっていないから、うまくいくか……火口になるものを探すのに手間取った」
そういいながらもエシュの手は動き、割って平らにした枝に穴をうがち、切り欠きを刻んだ。もう一本の枝先を丸く整えると、乾いた土の上に平らに削った枝を置き、体重をかけて錐もみをはじめた。摩擦でうすく煙がたつ。火種を慎重に火口――アーロンには乾いた草のかたまりのようにみえた――へ移し、そっと息を吹きかける。
簡単な炉に組んだ乾いた枝に炎がうつり、小さな焚火が燃えあがるにはかなり時間がかかった。煙をたどってアーロンは空をみあげ、ぼてっとした橙色の雲が頭上を覆うのをみた。
「エシュ! みろ、あれは――」
なんだと思う。そうたずねる前に空からは何かが降りはじめていた。白く軽いそれをアーロンは最初、雪だろうかと思った。すぐに次の異変が起きた。森の樹のあいだからのそりと竜が頭をのぞかせたのだ。
一種類ではなかった。アーロンとエシュの視線のなか、さまざまな竜たちがあらわれると、降ってくる白いものに群がり、食べはじめる。エシュは怪訝な表情のまま、自分の肩に落ちたそれを手のひらに集めた。
「これは食えるのか?」
そしてアーロンが止めるまもなく手のひらを舐めた。
「エシュ、おい!」
「……マナだ」
「マナ?」
「あ、いや……甘いぞ」
焚火の上に降りかかった粉は香ばしい匂いを発している。アーロンの腹がきゅうっと鳴った。エシュはすばやく立ち上がり、テントの中から葉を引き裂いて持ってくると、いまやあたりに積もりつつある白い粉を集めはじめる。
「アーロン、食おう。あれだけの竜が群がっているんだ。大丈夫さ。――っていうか、もしかしてこれ、蒸し焼きにできるんじゃないか?」
誘惑に負けてアーロンも自分の服の上に落ちた粉を集め、舐めた。かすかな甘みがあり、舌の上で溶けていく。いくらでも食べられそうだ。エシュは大きな葉で山盛りの粉をくるんだものを手早くつくると、並べて焚火の横に置いた。いつのまにか粉は降りやんでいた。アーロンは髪や服についたものを集め、エシュを真似て葉の上にのせ、指で少しずつ口に入れた。空腹はおさまっていた。エシュが立ち上がった。
「アーロン――雨が降るぞ」
「え?」
エシュは焚火の上にテントと同じ要領で素早く屋根をつくり、葉でくるんだ粉を全部その下に入れた。遅れてアーロンにも雨雲がみえた。エシュと共にテントに駆けこむ。あたりはたちまち暗くなり、ぽつぽつと大粒の雨が落ちはじめ、すぐにひどい降りになった。白い粉は溶けて消え、群がっていた竜はすべてどこかへ身を潜めている。
「不思議な土地だ」
アーロンはぼそりとつぶやいた。エシュが小さく笑った。
「そうだな」
「エシュ、俺は……目が覚める前に不思議な夢をみていた。帝国も辺境もない、ちがう……世界にいる夢だ。夢のはずだが……今もまだ、あれが夢だったという気がしない」
葉で幾重にも覆ったテントの中は暗かった。エシュはアーロンのすぐそばで膝をかかえている。
「夢なら俺もみたぜ」
いつのまにかアーロンの正面にエシュの顔がある。
「俺の夢にはおまえがいた。おまえはどうだった? アーロン」
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