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【第3部 翼の定位】3.混沌
コーヒー、梅雨、マナ。
どれも前世の記憶とともに俺の頭にうかんだ言葉だ。「マナ」は旧約聖書に登場する食べ物――のはずだが、俺の「前世」に生きた人物も詳しく知っているわけではない。聖書なんて書物をまともに読んだことはないからだ。
俺の頭に蘇るのは一枚の絵だけ。雪のように白い粉でうすく覆われた地面に、白い衣を着た髭の男が立っている。男の周囲には笑顔の人々が数人立っている。みな、白い粉で満たされた皿を持っている。これは奇跡の一場面だったはずだ。荒野で食物を手に入れた人々の物語にこの絵は添えられていた。
しかしいま俺とアーロンがいるこの世界には、食物になりそうなものはけっこうある。火も起こせたからこの白い粉に群がっていた竜も食えそうだし、もっと森を探せば食べられる根茎くらいみつかりそうだ。昨日は小さな果実しかみつけられなかったが、これだけ豊かな植生があってこの気温なら、もっと食べられるものはある。
アーロンはまだ眠っていた。
昨日こしらえた即席のテントを出ると体じゅうがゴキゴキ痛んだ。焚火の灰の中に小さな熾火をみつけたので、俺は慎重に息を吹きかけて燃え上がらせた。昨夜焚火の横に寄せた葉の包みをひらくと、中身は凝固した小さな塊になっていた。つまんで匂いを嗅ぐとミルクを思わせる甘い香りがした。かじると角砂糖のように口の中で溶ける。
お、これはいける。
すうっと背中の痛みが消えた。昨日白い粉に竜どもが群がっていたのはこのためか。強壮剤になるのだろうか?
森の中でみかけた竜は空から降ってくる食い物で生きているわけではない。植物を食べている竜もいたし、他の竜の死骸を食べている竜もいた。きっと生きている竜を襲うものもいるだろう。
それにしても奇妙な竜たちだ。
俺は森の中で小便をした。今日は青い鱗の竜が寄ってきても驚かなかった。それどころかしっかり観察しようとしたのに、バタバタッと宙を舞う羽ばたきに気をとられた。羽ばたきの主は形こそ見慣れた飛竜だったが、大きさは帝国の竜の二十分の一だし、黄緑と水色のまだらという色彩も帝国の竜とは似ても似つかない。
俺は泉のほとりに膝をつき、水面に映る自分の顔をみつめた。いつかイヒカがいったように、辺境の野生竜をすべて知る人間はいない。辺境生まれの俺もおなじだ。それでもこの世界の竜は、俺の想像の範囲をはるかに超えて――
待て。「この世界」?
俺たちは竜に呑まれた。俺はアーロンにしがみついて、ふたりもろともあの巨大な口の中に墜ちたはずだ。俺たちはいったいどこにいる? ここは竜の腹の中じゃないのか?
「エシュ」
俺はアーロンを振り向く。昨日は眠りに落ちる前、アーロンと夢の話をした。おたがいに目覚めるまえに見ていた夢だ。もっとも俺もアーロンも話の中身は要領をえなかった。俺は夢でみた「幾人ものアーロン」についてうまく話せなかったし、アーロンが見た夢には俺はいなかったという。
「アーロン」
「よく眠れたか?」
「ああ。これを食え」
俺は例のマナを渡し、アーロンは懐疑的な表情でひと口かじって目を丸くした。
「うまいな」
「今日の食糧はひとまずこれでいけそうだ」
まだ日差しはきつくないが、今日も暑くなりそうだった。泉の向こう側の岩棚へ渡ろうと話がまとまり、俺とアーロンはテントを解体して筏を組んだ。自分たちが乗るのではなく、脱いだ服を運ぶためだ。
並べた枝をアーロンが押さえ、俺はロープがわりの蔓で縛る。小刀があったのはよかったが、竜の骨の柄からは刻まれた紋様は溶けたように消えている。
「アーロン、おまえ……もし俺がいなかったら、どうなったと思う」
「昨日の夢の話か」
アーロンは完成した筏から手を離した。
「エシュ。俺にとってはおまえがいない世界などありえない。どうなったかといわれても」
「仮定の話だ」俺は昨日から脱ぎっぱなしの上着類をまとめて筏に縛りつけた。
「帝国軍が谷を急襲した時、俺はたまたまひとりで外にいた。ルーが俺をみつけなければ俺が帝都へ行くことはなかったはずだ。俺はそれからひとりで辺境をうろついて反乱者の一員になったかもしれないし、捕虜になって再教育を受けたかもしれない。帝都に行っておまえと会うなんて、ほとんどありえないことなんだ。でもアーロン、おまえは俺がいなくても必ず士官学校へ行ったはずだ。首席で卒業して、軍大学から〈黄金〉に配属されたんじゃないか。おまえの友人たちや……セランだって、俺がいなくてもおまえの近くにいたはず」
「そんなことがわかるものか」
アーロンは俺の言葉を断ち切るようにいった。
「エシュ。おまえと会う前の俺は……俺は……うまくいえないが、欲というものがなかった。たしかに父のような軍人になるとか、竜で空を飛ぶとか、それなりの望みはあったが、おまえと会ったとき……」
「俺と会ったとき?」
俺とアーロンは筏をあいだに置いて向かいあっていた。
「驚いた」
「驚いた?」俺は聞き返した。
「ああ。予想できないものに出会ったような気がした」
「――そりゃ、生粋の上流が辺境の野良育ちに出くわせばそうだろう」
「いや。ちがう。他の人間が誰もそんな風に思わなくてもいいんだ。俺にとっておまえはちがった、それだけだ。俺は正しかった」
正しかった、だって?
「このありさまで、ずいぶんな自信だな」
「おまえを愛しているといっただろう」
アーロンは呆れたような俺の目つきも意に介さず、あっさりいった。俺は言葉を返しそこねた。
「エシュ、泉を渡ろう」
今日は泉でふざけたりはしなかった。俺たちは下着一枚で筏をひき、静かに水を渡った。
大岩のあいだに細い通路のように泉の水は流れ、その先に昨日確認した通り、岩棚があった。遠目には道のようにみえたのは、道というより地面の上を何かが流れ出して固まった跡のようだった。平坦で草木も生えていない。
向こうには洞窟の入口がある。そのまわりも森に囲まれていた。このあたりの地形は波打つようなゆるい勾配があるだけだ。高所に登って見晴らすこともできない。つまり迷子になったままいつまでもさまよい続ける可能性が大。
「森で迷うか、洞窟で厄介事に出くわすかの二択――」
口にだしながら服を着てブーツを履いたとき、地面が揺れた。
「え? おい、地震?」
「エシュ!」
アーロンが森を振り向く。ざわざわと木が揺れ、ワンワン唸る真っ青の波のようなものが俺とアーロンめがけて押し寄せ、いや、飛びかかってきた。
耳元でうるさい音を立てる小さな生き物の群れ――なのだが、動きが早すぎて捉えられない。ひょっとしてこれも竜だろうか? 正体もわからないまま俺は森に背を向けて走り出す。アーロンも俺の横にならぶ。
「なんだこれ?」
「わからん」
俺とアーロンは洞窟へ走った。灰色に開いた口へ息を切らしながら駆けこんだ瞬間、呼吸でもしているように壁と床が伸び縮みしたように思った。青い波は唸りながらその前をぐるぐる回転するだけで、中に入ってこようとはしない。
俺はもう一歩洞窟の内側へ足を踏み入れ、アーロンも続いた。入ってきたばかりの開口部がみるまに縮み、小さくなった。
「え?」
すかさずアーロンが壁に手をかけたが、その壁もぬるぬると粘土を塗りこめるように動いていく。
「よせ、アーロン! 危ない! 下がれ!」
俺は怒鳴り、アーロンの腕をひっぱった。俺たちがうしろ、洞窟の奥へさがるのと、灰色の壁が閉じていくのは同時だった。それでもあたりは暗闇にならなかった。周囲の壁から乳白の光が染みでているのだ。閉じたばかりの灰色の壁にぴくっとぴくっと光が瞬き、白っぽくなり、ついで赤みがかってくる。この壁そのものが生き物であるかのように。
俺は洞窟の上をふりあおぐ。乳白の天井がみえ、俺とアーロンは彫刻されたような奇怪な形の岩に囲まれていた。
「どう……なってる」
「エシュ、気をつけろ、足もと!」
あっと思ったときはもう、遅かった。ブーツで踏んだ地面の感触が溶けたように消え、体重を支えるものがなくなって、俺の体はそのまま下に墜ちていく――と思ったのも一瞬で、今度は柔らかい何かに背中が当たり、落下が止まった。
あたりは点滅する乳白の光に覆われてよく見えない。俺はやみくもに手をのばして触れたものをつかんだ。なめらかで、こねて発酵させた粉のような弾力があり、俺がつかむとゴムのように伸びる。足はぶらぶらと宙を蹴っているのに、背中から腰にぴったりくっついたもので体は支えられている。
「エシュ、返事をしろ!」
上からアーロンの声が聞こえたが、奇妙な反響にさえぎられて距離感がつかめなかった。
「大丈夫だ!」俺は叫んだ。
「アーロン、落ちないように気をつけろ。俺は何かに引っかかってるらしい――」
背中を這うひやっとした感触に言葉がとまった。ズボンやシャツの裾から何かが入りこんできて、俺の皮膚をなぞったのだ。長いロープ、さもなければ皇帝の鞭を思わせるものが、布の下でくるくると俺の足に巻きつき、上に伸び、背中から入ってきたものは腰に達して、その下へさらに進む。
「あ、あっ――アーロン……」
「すぐ行く。待ってろ」
「だめだ――あうっ」
背中にからみついたそれが尻のあいだに触れたとたん、スイッチを押されたようにしびれが走り、俺の体はぴくりと跳ねた。まぎれもなく強烈な快感で、頬がぱっと熱くなる。この感じには覚えがある。皇帝陛下の醜悪な手袋が脳裏に浮かび、羞恥で背筋が震えた。俺の体を支えている何かはさらにもぞもぞと動き、腹から胸の上へあがろうとしている。シャツのボタンがぷちっと弾けた。
「アーロン、来るな――」
叫んだつもりだったが、ろくに声が出なかった。乳白色の鞭のようなものが俺のシャツを突き破ってのび、俺の口をこじあけて、中に入りこもうとする。
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