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【第3部 翼の定位】5.不敵

『これで話ができる』 「話だと?」  アーロンが俺の肩に腕を回し、小さな金色の竜をにらみつけた。アーロンの竜、エスクーによく似た飛竜の一種だが、両腕のあいだに抱えこめるほどの大きさで、紙のように薄い半透明の翼をゆったりと羽ばたいている。翼がぱたりと動くたびに光る粉が宙に舞い、乳白の壁や俺の肌のうえで消える。  こんなにわけのわからない状況にいるのに、俺の頭はセックスの余韻でぼんやりしていた。アーロンに支えられた体が信じられないほど軽かった。背中に回した手でさぐっても、刻まれたような傷跡はどこにもない。  あの傷は皇帝陛下の黒革の手袋、醜悪な〈法〉道具でつけられたものだ。最初は鞭で打たれたせいだと思っていた。しかし召使が軟膏を塗っても、背筋の中心からはひきつれるような痛みが消えなかった。  竜乗りはちょっとした怪我や痛みに慣れている。ほかの玩具で陛下が戯れにつけた傷は、不愉快だったが耐えられないものではなかった。だがあの小さな刻み目には他の傷とちがう作用があった。陛下が触れると、最初は耐え難いほどの苦痛なのに、やがて自分でも困惑するような快感に変わるのだ。  あれは俺が考えていたよりたちの悪い傷だったのかもしれない。 『それはおまえが何者であるかによるな』  俺の思考を読んだかのように言葉が響いた。声は竜の口からではなく、乳白色の空間全体から響き、頭の中に直接染みこむ。目の前に浮かぶこの竜が話しているのだと俺は思う。いや、竜が人間のように言葉を話すなど聞いたこともない。しかしこの空間で、俺とアーロンに言葉をかけられる存在がどこにいる?  『おまえの望みが帝都の駒に従うことなら気に病む必要はない。快楽をもたらすならなおさらだ。その印はおまえたちの〈法〉による所有のあかしだ。帝都の駒はおまえの印をたどれるというわけだ』  思いがけない応答だった。俺は反射的に口をひらいた。 「では、おまえにとってはどうなんだ」  威勢よくいったつもりだったのにかすれたか細い声しか出なかった。即座に返ってきた声にはすこし呆れたような響きがあった。 『もちろん私には不味いものだ。我慢できるわけがなかろう。帝都の駒の印をつけたものを私の胎にいれるなど。だから消した』 「帝都の駒とは皇帝陛下のことだな」  俺はアーロンの腕にすがるようにして体を起こした。俺たちはふたりとも裸のまま、弾力のあるでこぼこした床に座りこんでいる。空気は温かい湯のようにねっとりとして、ときおり頭上からミルクのように白い雫が落ちてくる。 『おまえたちはそう呼ぶらしい。そこの竜殺しも』  アーロンの肩がこわばった。「竜殺しだと?」 『剣を持っていただろうが』  乳白色の壁が脈動するように明るくなり、また元に戻った。竜はアーロンの鼻先に首をのばし、青い目をぎょろりとひらいた。 『どうだ。まだ私を殺したいか?』  次の瞬間、アーロンのこぶしが竜の鼻先へ繰り出されるのを俺は全身でとめていた。アーロンの顔は首筋まで赤くなり、俺の顔ものぼせたように熱い。俺はアーロンに胸をぴったり寄せ、自分の方へ引き寄せた。ほとんど無意識の動きだった。 「アーロン、待て。――おい、おまえはあの『神』じゃないのか? 俺をこの世界に転生させた……」 『いや? 私はおまえの神ではない』  金色の竜はアーロンの腕をすり抜け、羽ばたいてずっと上へ飛び、宙返りして戻ってきた。ふいに足元が大きく揺れた。俺とアーロンは絡みあったまま膝をつく。 『私は|竜の魂《アニマ・ドラコー》、けっして〈地図〉にならぬ者、未知を生み出す者、すべての野生の竜の胎、生への意志だ……』青い眸が俺とアーロンを睥睨する。『やっと、おまえたちふたりを捕まえた』  頭上から白い雫がぽたりと落ちて髪を濡らす。唇の端に垂れた雫を舐めると体がかっと熱くなる。俺たちはまた乳白色の空間に尻をついている。視線をめぐらせても、身につけていたはずの衣類はどこにもみあたらない。俺たちは出口のみえない空間に裸で閉じこめられている。  こんな状況にもかかわらず、アーロンの裸体がわき腹をかすめるたび、俺の中にはさっき満たしたばかりの欲求が切実にこみあげてくる。俺たちを濡らす白い雫のせいだろうか。あれが媚薬か興奮剤か、そんな作用を及ぼしているのか。唇についた雫はひどく甘く、粘膜に触れたとたん体がかっと熱くなる。  きっとそのせいなのだ――こんな状況なのに俺はアーロンとセックスしたくてたまらない。この男を抱きしめて、俺の体で受け入れて、ぐちゃぐちゃになるまで感じたい欲望ではちきれそうだ。得体のしれない金色の竜が鼻先でひらひら舞っているというのに。 『おまえが竜殺しのアーロンだな。帝都の駒、皇帝のために用意された道具』  ぴくっとアーロンの腕が揺れた。 「何の話をしている」 『帝都の駒たる皇帝の欲望はすべての〈地図〉を集めて|世界図《アニマ・ムンディ》を得ることだ。おまえは皇帝に仕える空虚な駒――アーロン、竜殺しの英雄』  空虚な駒?  俺は目をみはる。すぐさま頭に浮かんだのは目覚める前にみた夢の中の「アーロン」だった。皇帝に仕え、辺境を制圧し、竜を殺すことだけに人生を捧げた、誰も愛さない冷酷な男。  だがこのアーロンはちがう。 「アーロン、聞くな。おまえはそんなのじゃ」  俺は竜の言葉をさえぎろうとしたが、アーロンは静かに訊ねかえした。 「俺が駒だというのなら、動かしているのは誰だ」  金色の竜はくるりと宙返りした。青い目が俺とアーロンのあいだをくるくる動く。なんだか小馬鹿にされているような気がした。 『きまっている。おまえたちがあがめる神――神々の駒だ。彼らの声を聞き、彼らを憑依させる者はみな彼らの駒だ。帝都の皇帝も、辺境の指導者も、そしてエシュも彼らの声をきいた』 「エシュ……?」アーロンが俺の顔をみる。 「アーロン、」  俺はさえぎろうとしたが、竜の言葉はもっと速かった。 『そうだ。エシュはおまえに出会う前から神の声を聞いている』 「――アーロン、こいつの話を聞くな!」  俺はかっとして叫び、立ち上がった。素裸なのも気にせずにひらひら舞う竜へ飛びかかる。ところが足裏に触れる床は俺を跳ね返すように伸びあがって形を変えた。前のめりに転びかけた俺をアーロンの腕が抱きとめる。竜の声はまだ響いている。アーロンは俺を抱きしめたまま竜の眸を凝視している。 『ところがアーロン、おまえは他の駒とちがった。おまえには神々の声が聞こえない。神々はおまえを他の駒に仕える道具として、空虚な欲望として作りあげ、その結果おまえはなぜか、神々にも操れない最強の駒になってしまった。竜殺しのアーロン。そこでエシュが呼び出されたのだ。この世界の彼方から、おまえを殺すために』  なんだと?  「おい、やめろ! ふざけるな!」  俺はアーロンの腕を振りほどき、竜に向きなおった。 「俺がって? おまえが俺を転生させたあの『神』ではないのなら、なぜそれを知っている。何が駒だ、俺たちは生きている――この世界で生まれて、成長して――生きているんだ。ここはいったい何なんだ。俺たちをここから出せ。返してくれ」  今度は俺もアーロンのように竜の眸をみつめていた。睨みつけていると青色の中にうごめく形があらわれ、形を変えて、移り変わっていく。その形はなぜか〈地図〉の中にうかぶ|精髄《エッセンス》を連想させた。目をそらしては負けだという気がして俺は眸をみつめつづけた。アーロンは俺の背中を抱くようにして立っている。彼も竜の眸をみているのだ。  いったいどのくらい睨みあっていたのか。ため息でもつくかのように、周囲の乳白の光がすうっと弱まり、元に戻った。 『それならもうすこし話すことにしようか。神々について』  竜の両翼が大きく羽ばたく。とたんに金色の粉があふれた。舞い上がった金粉が俺とアーロンの頭上で星空のように広がると、したたりおちた乳白の雫が金粉の一粒一粒を網目につなぐ。金色の粉にまみれた乳白の雫が俺のひたいにおち、流れた。ずっとくすぶりつづけていた欲望が燃える炎のように大きくなる。 「俺は大丈夫だ、エシュ」  突然首のうしろでアーロンがささやいた。触れる体は熱く、太腿に堅いものが感じられる。俺だけが欲しがっているわけじゃない――そう思うと妙に安心して、俺はアーロンに背中をぴたりとくっつける。 『おまえたちは精気に満ちているな』  ふたたび聞こえた声には面白がっているような響きがあった。いつのまにかあの小さな竜は姿を消し、俺とアーロンの真上には金の粒子で縁取られた乳白の雲が浮かんでいる。 『ここは野生の竜を生む胎だ。話してやるから満足するまでまぐわえ』  そのとたん世界の上と下が逆転した。頭上にあったはずの白い雲に、俺はアーロンもろとも投げ出されている。

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