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【第3部 翼の定位】7.久遠

 そういうことか。  俺は「他のアーロン」を思い浮かべた。ここで目覚める前に透明な泡の中から観察した世界にいたアーロン、俺だけがいない世界の「アーロン」だ。皇帝に忠実だが、それ以上に竜を殺すことに特化した道具、強すぎて持て余される道具。  でもあれは――別の存在だ。ここにいるアーロンではない。 『アーロン、おまえはいつも最後に均衡を壊してしまう。神々はある時点でおまえという駒を取り除きたいと考える――だがそう考えた時はいつも遅い。「アーロン」に対抗できる、まったく別の駒が必要だった。回りくどい方法だが、たしかにエシュはおまえを変えた』  軍大学時代のシミュレーション、それにもっと古い記憶が俺の頭の中を駆け巡る。俺もアーロンもゲームの駒なら、俺たちが「生きる」とはどういうことだろう。俺は頭の下で組んだ両手をほどき、片手でアーロンの腕をさぐる。温かい指が俺の指に絡む。  そういえば俺は子供の頃から、自分の周囲を膜で覆われたような、他の人々が生きる世界から切り離されてしまったような感覚にときどき襲われていた。他人と体をつなげるとその膜は消え、俺は自分もまた生きているという感じを思い出せた。アーロンと抱きあっているときはひときわそうだった。 「どうして俺なんだ」  俺は寝そべったまま宙に向かってたずねる。あの小さな金の竜はどこかへ行ってしまった。たぶん分身のようなものにちがいない。ここが自分の胎のなかだと明かした以上、必要なくなったということか。 『さあ。選んだのは私ではない。彼らが覚えているかもあやしいものだ。おまえたちが〈地図〉を精製し弄るように、彼らはおまえを選んだ』  つまりドルンを生み出したように? 棘だらけの灰色竜を思い出したとたん、俺の胸はずきりと痛んだ。あいつはどうしているだろう。だいたいこの竜の外の世界はいま、どうなっているのだろう? 嵐が来る直前に竜の巣から竜石は運び出され、俺は〈黒〉の連中に撤退を命じた。俺とアーロンがどうなろうとも、帝国軍人である以上、彼らは命令に従ったはずだ。 『神々が必要としたのは、世界を渡ってもおのれを保持できる力と意思だ。しかしどうして私がおまえに意味を与えてやらなければならない? 好きに考えろ。これまでもそうしてきただろう』  好きに考えろ、だと? 俺は反抗的にいった。 「神は今のようになるのを予想したうえで俺をこの世界にほうりこんだのか? 自分の手に負えない「アーロン」を作ったのに? 最初からもっとましな世界にすればいい」 『私が知るか。私は彼らじゃない』  竜も反抗的にこたえた。急に可笑しさがこみあげてきて、俺は思わず笑った。つないだままのアーロンの手が俺の指をきつく握った。 『いまおまえたちがいるのは私の胎、私の世界だ。私こそが存在を作り出す。私も最初は彼らに道具として作られたかもしれないが、いまの私は時の流れが生み出す力で生きている。私はもう彼らの道具ではない。私は意思なのだ。この世界で生き続けようとする意志。だから私はみずからを名づけた。竜の魂(アニマ・ドラコ―)と……エシュ、おまえは神の声にあらがった。同等に強い道具だったおまえたちは惹かれあった。「皇帝」や「指導者」が命じても、おまえはアーロンを殺すのを拒否した。そう、おまえたちはそのくらい強い……私の胎のなかで、まだおのれを保っている』 「俺たちが強くなければどうなっていたと?」 『とっくの昔に、私が存在を生み出すための材料になっていたさ』  ひたいにぽつりと雨のような雫がおち、唇の近くにもおちた。俺はかたく唇を結ぶ。この液体の効果ならとっくにわかっている。 『私に食われてよかったな』  竜がいった。楽しんでいるような響きだった。 『こんなに惹かれあっているのに、おまえたちは外の世界ではろくに抱きあうこともできなかっただろう? ここなら誰にも邪魔されないぞ。おまえたちはここでずっとまぐわっていればいい……』  なんてこった。まさに竜の甘言だ。俺はぽつぽつと顔のうえにおちる甘露を避けた。竜の言葉がこだまするなか、壁の一部がぷくりともりあがった。淡く輝く珠の内側で小さな渦が巻き、しだいに濃くなってぱちりと割れ、極小の生きものが孵化したと思うとすぐさま金色の輝きに変化する。俺は目を凝らし、この乳白の壁のいたるところで同じように輝くものが蠢いているのに気づいた。さっきまでは霞んだような壁にしかみえなかったのに、今はみえる。竜は満足そうに言葉を続けている。 『おまえたちは私の力の一部となる。私はおまえたちを胎に入れたままもっと強くなる。神に対抗しうるほど……』 「知らないのか? それこそが竜の驕りだ」  俺の手を握ったまま、ふいにアーロンがいった。 『私が驕っていると?』 「そうだ。竜はおのれの傲慢に食われる」  そのとき突然世界が揺れた。俺とアーロンが横たわる雲が大きくバウンドし、乳白の壁にぴしりと細い裂け目が入った。裂け目は青い色に満たされている。  たったいま生まれたばかりの生きものが裂け目に触れ、シュッと音を立てて消えうせた。乳白の壁が大きく動き、盛りあがり、青い色に覆いかぶさる。乳白の中で青が渦を巻き、壁は蠕動して渦を飲みこんだ。まるで争っているようだった。 「どうしたんだ?」  俺は雲のうえで体を起こした。洞窟へ追いこまれるきっかけになった青い渦と同じようにみえた。 『私の力の一部だ。いったん私の中をめぐった力の残滓。生まれたての存在には毒となるから結晶させて排出する。ここには入ってこられないはず――』  また壁の中に裂け目が走った。青い輝きはいやおうなく俺にあるものを連想させた。 「竜石じゃないか。あれは竜石の輝きだ。野生竜の腹の石に貯まる力……」  俺は中腰になってあたりをみまわす。青い筋はいたるところに走り、乳白色の壁はさっきまでの穏やかさとはうってかわって、嵐の雲のように激しくうごめいている。  俺の中でふいに、パズルのピースがはまるように出来事がつながった。 「おい、竜。おまえはときおり山地の者に竜石を与えていた。そうやって、自分の力を辺境に分け与えていたんだ」 『だからなんだと?』  怒りのような激しい気配が空気に満ち、そのとたん青い筋はすべて消えうせた。内臓のようにひくひくふるえていた壁はしだいに落ちついた。一度なめらかになった表面にふたたび輝く珠が盛りあがる。アーロンが俺の肩を抱き、俺たちは目をあわせてうなずいた。アーロンも同じ結論に達したにちがいない。 「竜。おまえが俺たちを食ったあと、帝国軍はどうなった? あいつらは軍人だ。俺やアーロンが死んでも皇帝の勅令を果たすだろう。おまえが巣に貯めていた竜石はいま、皇帝の元にあるんじゃないか? 皇帝はおまえの力の一部を手に入れた」

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