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【第3部 翼の定位】8.無我

 アーロンとエシュがみつめるなか、雲の片隅がぽかりとへこんだ。黄金の頭が伸びあがり、あの小さな竜がまた姿をあらわした。翼を畳んで鉤爪を雲に埋もれさせている。頭をもたげると金の粒子が舞ったが、勢いは弱い。 『竜石は私の力の副産物だ。たいして気にもしていなかったが……皇帝が利用している?』 「やはりおまえはなんでも知っているわけじゃない。それがわかって安心したぜ」  ふてぶてしい口調でエシュがいい、肩に回されたアーロンの腕をそっと外す。竜にまっすぐ向きなおり、膝を立てた。 「おまえの話を聞いて考えたんだ。で、思いついたが――神様連中だって、なんでもわかっているわけじゃない。俺をこの世界へ放りこんで、アーロン以外にも変わったことがあるんじゃないか? そう、ルーや皇帝陛下はどうだ? 陛下は俺にこだわるあまり〈法〉で俺の背中に印をつけた。ルーは俺から何年間も山地の情報を聞いたあげく、ヴォルフと対立して帝国軍を離れた。俺がこの世界で生きることで、彼らの望むものは変わった」 『それで?』 「神々は駒のやることなすことすべてを決められないんだ。俺にしつこく白昼夢をみせたように、直接介入しているのがその証拠だ。しかも俺がこの世界で生きていれば、あらかじめ決めたはずの条件がずれていく。ルーも皇帝も、イヒカもセランも……今は、俺がいなかった世界とはちがう望みを持っているんじゃないか」  アーロンはエシュの横であぐらをかいた。 「皇帝は竜石の力で〈地図〉を集めるといった。おまえは俺が最後に均衡を破るといった。たしかに俺は皇帝陛下の計画に力を尽くしたが、均衡は皇帝陛下によって破られるのでは?」 『どうかな』竜はくるりと首を回した。 『そこまで強いものとは――』  途中で竜の言葉が止まったのは、乳白色の壁一面に青いひび割れが走ったからだ。雷電、あるいは手のひらに走る細い血管のように青い光のひびが伸びた。青が触れた部分がぽろりと欠ける。もちろん竜は放置しなかった。白い光が青いひびの上を走り、修復していく。  なかなか抜けられない嵐の雲のように、青いひび割れがあらわれては消える様子をアーロンは見守っていたが、しだいに不安がきざすのをおぼえた。エシュも居心地が悪そうな表情で周囲をみまわしていたが、ついにいった。 「おい、竜。大丈夫なのか?」 『あたりまえだ。ここは私の胎の中で、おまえたちは無力だが、私は全能――』  エシュは顔をしかめた。 「ほんとかよ? おまえの中にいるんだから俺たちは一蓮托生だろう。竜石を手に入れた皇帝におまえごとやられるなんてごめんだぜ」  小さな黄金の竜は知らぬ顔でそっぽを向き、翼を軽く広げたが、飛び上がろうとはしなかった。青いひびはすべて埋められ、元に戻っているかに思えたが、その様子はまたアーロンを不安にさせた。エシュが舌打ちして髪をかきあげる。黒髪に混じる黄金の房が指に絡む。 「アニマ・ドラコー」  アーロンは慎重に口を開いた。 「エシュが俺のいる世界へ来たために、俺は神が定めたような……ものではなくなった。そうだな?」 『おそらくな』  竜の声にはどこか拗ねたような響きがあった。アーロンは重ねていった。 「俺の望みはエシュと共に生きることだけだ。皇帝陛下に従うことでも、おまえと戦うことでもない。エシュと共に生きられる世界を俺は望む」 『だから?』 「ここから出してくれ。俺はおまえが弱っているのを感じるぞ。それも急に……」  ふと直感が浮かんだ。アーロンは早口でいった。 「待て。俺たちがおまえに食われてどのくらい時間が経った?」  竜は心なしか面倒くさそうに答えた。 『おまえたちのいう「時間」はここでは意味をなさない。私は時の流れが生み出す力で生き、新しい存在を生み出し、生むことによってさらに生きる」 「だが、あの青い裂け目はおまえが生むのを邪魔している。あれはおまえには毒なんだ。竜。おまえは俺たちが強いといったな。俺たちをここから出せ。皇帝陛下を止めて、あの毒を取り除いてやる」  小さな黄金の竜は頭をもちあげ、不満そうにアーロンを睨みつけた。 『盗人猛々しいとはこのことだ。そもそも私の巣から竜石を持ち出したのはおまえたちではないか』  アーロンは動じなかった。 「おまえこそ、俺とエシュを自分の力の一部にするつもりで食ったんだろう。竜、どうもここに来てから――おまえに食われてから、俺はおまえの〈法〉を感じられるようになったらしい。今もおまえの力が削られているのがわかる。ここで時の流れがどうなっているにせよ、おまえはどんどん弱っている。早くしないと手遅れになるぞ」 『アーロン。ヒトの分際で私と取引するのか?』  ふいにエシュの肩が揺れた。みるとうつむいたまま笑っている。エシュは顔をあげ、アーロンと竜を交互にみた。くぐもっていた笑い声が大きくなり、快活に響きわたる。 「そうだな、アーロン。命じるだけの神とちがい、竜とヒトは取引ができる。取引しようぜ。取り戻してやるよ」  小さな黄金の竜はばさりと翼をひらいた。エシュとアーロンを睨みつけたまま動かずにいる。  突然、闇がアーロンを包んだ。  視界のみならずあらゆる感覚が奪われたような、完全な闇だった。すぐそばにいるはずのエシュの存在も感じられない。アーロンはもがくように腕をのばした。指先が温かいものに触れた。かたちをなぞり、たしかめる。何もみえないまま、エシュのひたい、耳、首、髪の房、唇をたしかめ、顔を寄せ、その息を感じようとした。 『ならば出るがいい』  ついに竜の言葉がきこえた。さっきよりもずっと遠くから響いてくるようだ。 『おまえたちは私の胎から生まれ直す』  アーロンの裸の背中がなめらかで柔らかいものに触れた。ねっとりとした空気に包まれ、水に浮くように重さの感覚が消える。 「エシュ!」 「ここだ。おまえを掴んでる」  エシュの声は肌から骨にじかに響いた。アーロンは闇の中でエシュの体をさぐり、裸体をぴったりとあわせた。足を絡ませ、太腿と股間が触れあった。アーロンの目にはいまだ何ひとつみえなかったが、触れた部分はおたがいの欲望ではちきれんばかりだった。  指をのばしてエシュの胸をさぐり、小さな尖りに触れた。エシュの肩がぴくりと震えた。両手はアーロンの背中をぐっと抱きしめている。腰の中心を触れあわせ、唇をさがし、重ねあわせる。ひとつの意思がはっきりとアーロンの中でこだまする。これから何が起きようとも、この男は俺のものだ。

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