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【第3部 翼の定位】10.破戒
細く白い光は闇を縦に、ギザギザに切り裂いた。アーロンはまばたきをくり返し、距離の感覚を取り戻そうとした。軋むような音が響いたと思うと、真上にも小さな光の円があらわれている。裸の体を包んでいた液体が動き出すと同時に重さと方向の感覚が戻り、足裏がぬるぬるした地面を踏んだ。
それでもアーロンはエシュを抱きしめていて、ふたりで支えあうように立っていた。今は周囲をかこむ壁が淡い灰色の球面だとわかる。大きくなった割れ目の方へ黄色がかった液体が流れ、あふれ出す。
「アーロン」
エシュが肩をゆすり、アーロンの腕をすりぬける。
「出るぞ」
それ以上聞く必要はなかった。背中合わせに立った二人は拳で灰色の球面を叩き、殴りつけた。アーロンの前にある割れ目が大きくなり、陶器が欠けるように割れ目の一部が砕け散る。ドシンという衝撃音についふりむくと、エシュが蹴りを入れた部分にひび割れが広がっていた。ふたりを包んでいた液体は流れ去り、新鮮な空気が入ってくる。エシュがつぶやいた。
「山地の風だ」
アーロンの前にある割れ目から眩しい光が入ってくる。眩しすぎてその向こうに何があるのか、まったくみえない。いつのまにかエシュがアーロンの横に並び、ふたりは力をあわせてひびの入った球面の壁を押していた。灰色の球面がメリメリっと鳴る。横にいるエシュと自然に呼吸がそろう。
一、二、三。
メリメリ、ズシン……振動が響き、大きくなった割れ目が前にずれ、灰色の球面はアーロンとエシュの手から離れると前に倒れた。視界一面にあふれた光の眩しさにアーロンは目を細め、無意識に胸の前で腕を組んだ。冷たい空気に触れた肌に鳥肌が立つ。光の中に黒い影が動いた。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ――
何に囲まれているか悟ったとたん、エシュが一歩後ろにさがり、アーロンも続いた。円を描くように取り巻く人間の顔、驚愕の表情を浮かべたたくさんの顔がふたりをみつめている。
うわあああああっという叫びが響いた。まぎれもない恐怖の叫びだった。取り囲んだ人間の垣根が崩れ、数人がうしろへ飛び退る。驚きの声が響いた。
「おまえたちは――なんだ? まさか帝国の陰謀――?」
「竜の卵から人間――」
「皇帝の竜石の力がここまで来たと……?」
次の瞬間パニックの気配が押し寄せ、長い棒を振り上げながらアーロンに若い男が飛びかかってくる。アーロンは体を低くして男を避け、斜め前に足を踏み出しながら棒を奪い取り、周囲を囲んでいる灰色の球面を叩き壊した。地面に黒とのまだらが散らばり、その上にエシュの蹴りをまともに受けた襲撃者が転がり、うずくまる。黒と金――灰色の球面の外側の色だ。砕けたかけらを一瞥したエシュの眸に愉快そうなきらめきが浮かんだ。
「そこをどけ」
エシュはうずくまった男の背中に無慈悲なもう一蹴りを食らわし、盾になりそうな大きなかけらを拾い上げた。ところどころまだらになって入り混じる漆黒と黄金をみて笑顔を浮かべる。
「竜の卵か。アーロン。ここは孵化場だ」
「孵化場?」
「あいつらは山地の人間だ。俺たちは野生竜の卵から生まれてきた――いや、アニマ・ドラコ―は俺たちを卵に送りこんだ……おい、あれも卵か?」
エシュは自分の斜めうしろを指さし、アーロンもその方向をみた。砕けた黒と金の殻が小さな山になって重なっているが、その向こう側に虹色がきらめいた。木を組んだ台座のうえに、両腕で抱えられるくらいの大きさ――人間の赤ん坊くらいの大きさの、楕円の球体が鎮座している。
エシュは無造作にそちらへ足を向けた。見知らぬ人人々の敵意が囲まれて裸で立っているのに、何も気にしていないようにみえる。だが次の瞬間、ふたりを囲む群衆からは鋭い声が飛んだ。
「その卵に触れるな! そいつらを取り押さえろ!」
一、二、三。
呼吸するようにエシュとタイミングを揃える時間があった。最初に襲いかかってきた男をアーロンは奪った棒の先で一度押し戻し、つかみかかろうとする腕を逆にとらえて投げた。裸足で殻のかけらを踏むのは尖った石の上を走るような気分だったが、足裏が痛もうがかまっている暇はない。エシュが器用に体をひねり、とんぼ返りして二人の男のあいだを逃げた。
猶予ができたのもつかの間、アーロンの前に別の男が立ちふさがる。繰り出される拳を避けようと足をずらしたとき、足裏に貼りついていた卵の殻がずるりとすべった。バランスを崩した胸のあたりに拳が叩きこまれる。前のめりに倒れそうになるのを踏んばってアーロンは反撃しようとしたが、寸前で顎に一撃を加えられた。頭がくらりとしたところをさらに殴られて、膝をつき、両手を垂れる。
このままでは捕らえられてしまう。エシュは彼らを山地の人間だといった。つまり、このまま彼らの捕虜になるということか。
キイィッ――
ずっと上の方で甲高い悲鳴のような竜の鳴き声が響き、さらに翼の音も聞こえたような気がした。襲いかかってくるはずの衝撃はなく、かわりにあがったのは「うわああああっ」という叫びだ。
アーロンはゆっくり頭をもちあげ、自分たちがいる場所が奇妙な形の岩がそそりたつ谷間だと初めて気がついた。洞窟ではなく、張り出した岩が屋根のようにかぶさって、白い雲に覆われた空の半分を覆い隠している。その岩の屋根の下、竜が翼を大きく羽ばたかせ、ふたりを襲っていた人間たちを追い散らしている。
何が起きたんだ?
そのとたんアーロンの視界は竜の眼の位置に飛んでいた。これまで感じたことのないほどの幸福感と力の感覚がみなぎって、下界にいる人間をみおろしている。キイッと声をあげると、岩のあいだに立つ裸のふたりを脅かしている連中が驚き、逃げ去ろうとする。それが面白くてもう一度声をあげるのだ。ほら……
――待て。これは竜の意識だ。俺の上を飛ぶ竜がいま感じていることだ。
そう気づいたときにはアーロンの視界は地上に、元の自分の肉体に戻っていた。羽ばたきと共に竜の体躯がアーロンの側に降り立つ。帝国の竜ではないことはひとめでわかった。鱗は黒色で、ところどころに銀が散っている。アーロンを守ろうとするかのように翼が広がり、風をさえぎった。首がのびあがり、周囲を睥睨する。
「ハハハッ なんて綺麗なんだ、おまえ!」
快活な笑いのあとにエシュの声が響いた。アーロンは声の行方をさがし、もう一頭の黒い竜がエシュをかばうように舞い降りるのをみた。エシュはアーロンのように驚いておらず、すべてを理解しているように微笑み、アーロンの方を向く。
「最高だ! こいつら」
アーロンは困惑した。
「エシュ、何が……起きている?」
エシュはアーロンの隣にいる竜へ手をさしのべた。
「アーロン、おまえはこいつの〈|底《テイ》〉に触れたんだ。竜石の異法さ。もっとも俺たちは竜石を持っていないが」
どういうことだ? しかし問いただす余裕はなかった。アーロンとエシュを囲んでいた人間たちの一部は驚愕して逃げ出したが、残りは遠巻きにしたまま谷じゅうに散らばっている。それどころか、上部の岩のあいだからふたりをみつめる顔が増えている。
その中に見覚えのある金髪が揺れた気がして、アーロンは目を瞬いた。人々はささやきあい、ざわめきが広がって、そのうちのいくつかはアーロンの耳にも届く。
「……どうして竜が守るんだ?」
「彼らは……竜の卵から現れたんだろう?」
「ぜったいに帝国の罠だ――」
「でも……」
「何をしている!」太い声がざわめきを切り裂くように叫び、岩のあいだに反響した。「早く取り押さえろといっただろう!」
誰も動かなかった。どうすればいいのかわからないといいたげに、視線をあちこちにめぐらせるばかりだ。
パンパン、と手を叩く音が響いた。
ひょろりとしたシルエットが岩のあいだにあらわれた。数人が道を譲る。片足をすこし引きずった、その歩き方にアーロンは見覚えがあった。肩から背中へ落ちた長い金髪が無造作に揺れた。
「よくもそんな恰好で、とんでもないところからあらわれてくれるものだ、エシュ」
男は喋りながら近づいてくる。アーロンとエシュを守る竜はどちらも男に対して無関心だ。
「きみたちは皇帝が竜石を手に入れた時、贄として竜に殺されたんじゃなかったのか? いったい全体どうなっている?」
アーロンは金髪の男からエシュへ視線をうつした。もう微笑んではいなかった。引き結ばれた唇がためらいがちにひらく。
「俺だって予想していなかったさ。イヒカ」
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