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【第3部 翼の定位】11.玄鳥

 イヒカは俺の記憶にある姿とほとんど変わらなかった。足をすこし引きずっているのも、口元にうかべた皮肉な微笑みも〈黒〉の団長だった時と同じだ。ちがいといえば軍服を着ていないこと、金髪を背中に垂らしてること、このくらいだ。 「いったいどうなっているか、だって?」  俺は卵の殻を盾のようにかざして挑発的にいった。 「それはこっちのいいたいことだ、イヒカ。ここはどこなんだ。ここで何をしている? 俺たちはどうも孵化したらしいが」  イヒカが呆れたように肩をすくめる。頭の中で何を考えているのかはさっぱり読めなかった。これも彼が〈黒〉団長だったころと同じだ。 「竜の卵からあらわれた当人からそんな言葉を聞くとは、世も末だ。もちろん竜の雛にしたところで、生まれた瞬間は何がどうなっているのかわからないだろうがね」  イヒカが一歩足を進めるたびに俺とアーロンを護っている二頭の竜の頭が揺れる。俺たちに害をなすのではないかと用心しているのだ。俺もアーロンも素っ裸で、竜石もないのに、どういうわけかふたりともこの竜たちと〈|底《テイ》〉を繋いでいる。今の俺は竜たちの視界を借りることもできるし、ここにいる人間たちを蹴散らしてくれと頼むこともできる。  ――キィッ  アーロンの側にいる竜が警戒音を発した。イヒカの足がぴたりと止まる。 「ところで、まずはその……守護竜をどうにかしてくれないか。きみたちに危害を加えるつもりはない」  俺は竜をみあげ、腕を組んだ。 「そこで取り押さえろって叫んでいただろうが。それに、守護竜って?」  イヒカは首をめぐらし、ついで片手を高くあげて手のひらをふり、指を曲げ伸ばしした。あきらかに何らかの意味があるメッセージだった。山地の人間が竜の背で送りあう符牒に似ているが、俺には意味がわからない。  いまや俺たちは無数の人々の注目にさらされていた。卵が割れた時にいた連中や襲いかかってきた者たちだけじゃない。岩山のあいだからも顔がのぞき、どんどん増えている。イヒカは俺とアーロンを交互にみた。 「きみたちは捕虜ではないが、まず私の預かりにしよう。その竜たちはここを護る竜の群れに属する。ここはその竜たちにとっても我々にとっても神聖な場所だ。ここにある卵は間隙からあらわれたもので、未知の竜を生み出す。帝国の支配がさらに進んだいま、この場所に辺境の生き残りが――未来がかかっている」 「我々? あなたはいつからそうなった」  俺は思わずつぶやいた。アーロンが身じろぎ、俺の方へ何かいいたげな視線を送ってよこす。イヒカは俺とアーロンを交互にみて、またあの底のしれない微笑をうかべた。 「いつから? さて……どうかな。何しろきみたちが竜の贄になってから一年近くたつのだし」 「一年?」  アーロンが呻いた。俺も驚きの声を止められなかった。 「そんなに?」  イヒカの眸にちらりと陰りが走ったが、すぐ元に戻った。 「たしかに、お互いに何がどうなっているのか確認しなければならないようだ。それにきみたちを人間に戻す必要もある。まったく、ふたりとも竜の匂いをぷんぷんさせているし、このままでは目の毒だ」  それもたしかに。俺は竜の翼で半分隠された自分の体を見下ろした。皮膚には透明な、べとべとするものがくっつき、一部は乾きはじめて、どちらにせよ不快だった。  俺たちを取り巻く人の壁から男がひとり進み出た。用心深く俺とアーロンに目を走らせ、ハッとしたように目をみはる。タキだ。  一年近く。では帝都で彼と再会したのも、もうそのくらい前だということか。  タキはすぐに目をそらし、イヒカの耳元で何事かささやいた。イヒカはうなずき、俺たちや周囲の連中にも聞かせるように、はっきりと命じた。 「ひとまず皆を解散させてくれ。このふたりが何者だろうと、私が預かるから興奮するなと伝えなさい。孵化場は竜たちに任せておけ。ああ、そうだ、これが最優先だ。何でもいいから、彼らが着るものを持ってきてくれ」  イヒカの冷静な指示は俺を妙に懐かしい気分にさせた。  最初に届けられたのは裾が地面につきそうなガウンが二枚だ。竜の翼の影から出て、体を覆った俺とアーロンをイヒカは孵化場の谷の奥へ導いた。タキが俺たちのうしろについてくる。高いところから覗いていた連中は姿を消したが、不満のありそうな表情を浮かべて遠巻きにみていた数人は、竜が一声鳴くと飛び出していった。  谷の奥は岩場の隙間をぬうような細い道に通じ、その先は俺にはとても懐かしく感じられる、典型的な山地の住居だった。アーロンが珍しく好奇心をむきだしにして、薄暗い通路の壁をじろじろ眺めている。壁は岩とモルタルと堅い木の組み合わせで、独特の模様を描いている。 「まずは風呂だな。きみたち、自分がどんな匂いかわかるかね?」  イヒカが細い通路の先にある木の扉をあけながらいった。鼻にしわをよせている。 「知っているさ。孵化したての竜の匂いだろう」 「さっさと人間らしくなってくれ」  出たところには屋根がなかったが、切り立った岩に囲まれた場所で、隅に小川が流れていた。いや、湯気が立ち上っているから、温泉をひいているらしい。竜の孵化場は地熱のある場所に作られるので、温泉があること自体は驚きではない。 「きみたちがどこかへ行くとも思えないが、見張りを立てるか。タキ、着替えを持ってくるついでに誰か連れてきてくれ」  イヒカがそういったとき、俺はもうガウンを脱ぎ捨てていた。 「安心しろよ。どこにも行かないぜ」  俺はイヒカに背を向け、足先を湯につける。すこし熱いが火傷するほどでもない。深さは膝のあたりまでで、腰をゆっくり落としてからイヒカの方を向く。  すぐ近くでしぶきがあがった。アーロンが体をこすっているのだ。 「きみはたしかに私の知っているエシュだが、私の副官だった時はもう少し丁寧に喋った気がするよ」  水音にまじってイヒカの声が響いた。 「それをいうなら、あなたが俺の知っているイヒカなのかは怪しいもんだ」 「その件についてはおいおい話そう。どこにも行かないといってくれるのは嬉しいね。悪くない眺めだ」  とたんにアーロンが顔をあげ、黙ってイヒカをみつめた。金髪の男は閉口したそぶりで首をすくめた。 「やれやれ、アーロン。あいかわらずの敵愾心だな。頼むから私を睨まないでくれ。今のところきみたちをどうこうするつもりはないし、それに私は、きみたちは我々の味方だと思っている」  味方、ね。  イヒカを無視して俺は体を洗いはじめる。俺たちがこうやってこの世界へ戻ってきたのは、アニマ・ドラコーの策略のひとつだ。俺たちはあの竜と取引をした――竜の胎から出す代わりに、竜の巣にあった竜石を取り戻してやるといったのだ。辺境の人間はアニマ・ドラコーの味方だろう。ではイヒカは?  あの竜はイヒカについて何かいっただろうか。イヒカもこの世界をゲーム盤のように扱う神の『駒』だったなら、どんな指し手に使われたのだろう。  脳裏にいくつかのパターンが浮かんだものの、熱い湯の感触は心地よすぎて、俺は考え続けることができなかった。湯に浸かったまま体じゅうを擦り、髪も濡らして指で梳くと、皮膚にくっついていたものや髪の毛の房がごっそり流れていく。さっぱりした気分で髪をかきあげると、イヒカの姿は見当たらず、乾いた布と服の小さな山が岩の上に置かれていた。  タキの他に見張りらしき若者が二人、俺とアーロンを遠巻きに眺めている。はじめて竜の側へやられた子供のように、怯えてそわそわした身振りだった。  俺はここからでも竜に話しかけられるのか試してみたくなった。孵化場にいた竜や、あるいはそれ以外の竜たちに呼びかけられるだろうか? 湯に浸かったまま意識を飛ばしそうになったまさにその時、アーロンが呼んだ。 「エシュ?」 「ああ」  なぜかいたずらを見透かされたような気分になった。俺は飛沫を散らして立ち上がり、用意された服を身につけ、短靴を履いた。色やデザインこそちがうものの帝国軍の制服とあまり変わらない。 「行くぞ」  タキが低い声でいった。俺とアーロンは今度はタキのあとについて通路をたどった。ずっと先の方からこちらに向かって走ってくる足音が聞こえる。タキが突然立ち止まり、俺とアーロンもおとなしく足を止めた。タキが顔をしかめたような気がしたが、気のせいだったのか、確かめられなかった。前方から走ってきた人物がまっすぐ俺に飛びかかり――いや、抱きついてきたからだ。 「エシュ! エシュだろう!」 「シュウ? おまえ何でここに――」 「生きてた! 生きていた! そりゃそうだ、エシュは食えないやつにきまってる!」  小柄な男は俺にすがりつきながら叫び、笑い声をあげ、やがて俺の胸に顔を埋めたまま泣き出した。タキが困ったようなため息をついた。アーロンはあっけにとられているようだ。俺は〈黒〉の解析官の肩に腕をまわし、抱擁を返した。

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