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【第3部 翼の定位】12.堕天
「シュウ、落ちつけ。どうしてここに……」
「ああもう、勘弁してくれよ、聞きたいのはこっちだ! 本物のエシュだな?」
エシュにすがりついていた小柄な男が顔をあげる。うしろに立つアーロンに気づいたとたん、涙に濡れた眸にさっと警戒の色が浮かんだ。興奮した男を落ち着かせようとするように、エシュが背中を軽く叩いた。
「ああ、本物だ」
「今までどこにいた!」
「たぶん竜の腹の中だ」
「竜の腹ぁ? ここでそんな冗談――」
「あいにく冗談じゃないんだ。それよりシュウ、〈黒〉はどうなった。他の隊員は? おまえはここで何をしている?」
イヒカに指示を受けていた山地の男が顔をしかめ、エシュの肩に手を伸ばした。
「そこで話すな。行くぞ」
しかしエシュは優雅に肩をひねってその手を空振りさせた。
「俺は逃げやしないぜ、タキ。知りたいのはシュウの立場だ。おまえは山地の捕虜なのか? それとも反帝国に加わったのか?」
タキと呼ばれた男が舌打ちした。浅黒い肌の中で細い茶色の眸が鋭く光る。アーロンはエシュが男の名を知っていることに驚いたものの、表情には出さなかった。シュウがいまいましげに眉をよせ、口をひらきかけた。離れたところからイヒカの声が響いた。
「シュウは山地の客人だ――少なくとも今はな。こちらへ来なさい」
エシュの元上官は岩を掘りぬいたような背の低い入口を頭をかがめて通り抜けた。ほとんど無意識のようにみえる、もの慣れた動作だった。内部は帝国軍の兵舎を思わせる飾り気のない空間で、お世辞にも広いとはいえない。尋問室を思わせる真四角のテーブルが中央にあり、その向こうの壁に小さな窓がある。テーブルの周囲には飾り気のない椅子が数脚置かれている。
イヒカは奥の肘掛椅子に腰を下ろし「好きなところへ座りたまえ」といった。エシュが肩をすくめて一歩前に出るとイヒカの正面の椅子を引いて座った。アーロンは一瞬ためらったが、結局エシュの横に座った。シュウは勝手知ったる様子で壁際へ椅子を引きずっていく。タキが入口に立ち、一行の最後におどおどとついていた見張りの若者に手を振った。
「おまえは外にいろ」
「タキ、きみはそこにいるんだろうな」
イヒカの口調は軽かったが、なぜかアーロンの注意をひいた。
「はい」
「私としてはユルグが同席してもかまわないがね。手間が省ける」
タキは無言で首を振り、アーロンはふたりのあいだに緊張した空気を読みとった。突然エシュがテーブルの脚を蹴った。イヒカがわざとらしい視線を向けるとエシュは不敵に笑った。
「悪いな。なにせ生まれたてでね」
「エシュ、きみにまた会えて本当に嬉しいが、全部何かの冗談ならよかったのにと思うよ。さてどこから話してもらおうか?」
エシュが口をひらく前にアーロンはすばやくいった。
「それはこちらの質問に答えてからだ」
「ずいぶん強気だな。文字通り身ひとつで現れたというのに」
「身ひとつじゃないさ」エシュがふんと鼻を鳴らした。「ここの竜たちは俺とアーロンにつく」
「どうしてそう断言できる? 竜の同族になったとでもいうのかね?」
「試してみるか。俺はかまわないぜ」
エシュは挑発的に腕を組んだが、イヒカの声は穏やかだった。
「先に質問を聞こうか。アーロン?」
奇妙な会話だった。これが仮に尋問なら、自分とエシュを同じ部屋に入れはしないだろう。イヒカの本心を測りかねながらも、アーロンは口をひらく。
「俺とエシュをみたとたん、あなたはこういった――『皇帝が竜石を手に入れた時、贄として竜に殺された』と。帝国軍で俺たちはそんな風にいわれているのか?」
「いや、これは山地の表現だ」
イヒカはエシュへ視線を向けた。「きみは最初から禁忌を知っていただろう。世界竜の棲み処からひとつ以上の竜石を持ち出してはならない。破ったものは竜の贄となる」
世界竜。あの竜のことをここではそう呼ぶらしいとアーロンは心に留める。しかしエシュの返答はそっけなかった。
「あいにくだが俺は生贄なんてきいたことがない。『試練』の話をしているのならその通りだ。持ち出せる竜石はひとつだけ、欲をかいたものは谷へ墜ちる。よくある警告だ」
イヒカは動じなかった。
「言い伝えにはバリエーションがつきものさ。とはいえきみたちには目撃者がいる。最後に世界竜の崖を離れた〈黒〉の隊員が、雲のあいだからきみたちが竜に呑まれるのを目撃した。我々は彼が他の隊員や帝国軍キャンプと交わした通信を傍受しただけだ」
「それからどうなった?」
エシュが続きを催促する。しかし口をひらいたのはイヒカではなく、シュウだった。
「連中がベースキャンプの上空へ現れる直前にキャンプを反帝国が急襲したんだ。だがこいつらの竜は〈黒〉の変異体に歯が立たなかった。結局あいつらだけ竜石を持って脱出し、僕は置いてきぼりだ。僕の|竜《ファウ》は変異体についていけないんでね。で、そのまま捕虜になるかと思いきや、なんと反帝国には昔の団長殿が潜んでいた」
「さっきもいったが」イヒカが割りこんだ。「シュウは今は山地の客で、私が預かっている。あれから時間が経って、現在の〈黒〉に戻る気にはなれない、そうだろう?」
現在の〈黒〉といったイヒカの口調にはあきらかな棘があり、シュウは居心地が悪そうな表情になった。エシュはもちろん見逃さなかった。
「どういう意味だ。それに俺とアーロンの竜はどうなった? ドルンは?」
「ドルンは変異体を先導して――」
シュウがそういったかいわないかというとき、アーロンの心に何かが触れた。エシュがハッとしたように首をめぐらし、ほぼ同時にけたたましい警報音が天井から鳴り響いた。シュウが飛び上がるようにして立ち、タキがすばやく窓の側へ走った。
「いったいなんだ?」
アーロンも立ち上がったが、イヒカは座ったままだ。
「噂をすればなんとやら――エシュ、どうした?」
エシュは座ったまま、焦点の合わないまなざしを宙にむけている。アーロンは本能的にその肩に手を触れた。唐突に視界が岩山の風景に切り替わった。いままさに飛んでいる竜の視界だ。地平線に灰色の影がみえる。巨大な翼、全身に棘の生えた体――
影の正体を認識した瞬間、アーロンは急旋回した竜から振り落とされるように自分の体に戻っていた。手の下でエシュが頭を垂れ、うつむきながら両手で口を押えた。吐き気をこらえているのがわかった。警報は消えている。
「偵察……か。攻撃は?」
イヒカがタキに問いかけている。タキは部屋の隅に目立たないようにおかれた通話装置で話しているらしい。
「行ったようです」
「エシュ、大丈夫か?」
シュウが心配そうに声をかける。タキは窓から外をのぞきこみ、イヒカはエシュの方へ体を乗り出した。アーロンはエシュの背中をそっとさすり、いった。
「たった今俺たちは孵化場を守る竜の眼に入って、みたんだ。ドルンが来ていた。エシュの竜だ――〈黒〉の変異体」
タキがふりむいた。
「まさか、おまえらは竜石の〈法〉を使えるのか?」
「竜の〈法〉というべきだろうな。石は不要だ」
エシュが顔をあげ、イヒカを避けるようにアーロンに背中を預けた。吐き気はおさまったらしいが、アーロンはもう座る気にはなれず、エシュの背後に立ったまま、今みた|像《イメージ》を思い返す。
「ドルンは誰も乗せずに飛んでいた」
アーロンのつぶやきにエシュは首を振った。
「いや。皇帝が乗っていた」
「鞍は無人だったぞ」
エシュはまた首を振る。
「いや。あれは遠くから竜石で操られている。ドルンには……」声が小さくなった。「〈|底《テイ》〉がなかった。俺と繋いだのに――皇帝に乗っ取られた」
「〈|底《テイ》〉か」
淡々とした声でいったのはタキだ。きついまなざしがエシュとアーロンの間で動く。
「いま山地を襲う〈黒〉の竜にそんなものはない。あいつらは野生じゃない」
エシュが怒鳴った。
「そんなことはない。それに変異体はもともとおまえらが作ったんだ。おまえらの地図師が!」
「ああ、そうだ。あれは間違った手段だった。俺たちは自分で作ったものに自分で首を絞められている」
エシュはタキを睨みつけた。以前からの知りあいだとしたら、エシュが帝国へ来る前から、ということか。だが今はこだわっている場合ではない。アーロンは問いかけた。
「それで、いったい何が起きている?」
タキの視線がイヒカに流れた。かつての〈黒〉の指揮官の唇からかすかなため息がもれる。
「〈黒〉の竜部隊はいま、帝国皇帝が直接指揮をしている。強力な竜石であの竜たちを完全に指揮下に置いている。ドルンというのは棘の灰色竜か? 皇帝のお気に入りだ。辺境をぐるりと回って楽しんでいる」
「何を?」
「殺戮だろう」
あっさりと口に出された言葉にエシュの眉がゆがんだ。
「皇帝が竜石を手に入れて以来、帝国との綱引きに我々は負け続けている。〈地図〉を奪うどころか、奪われ続けているありさまでね。辺境の竜はこの一年で激減して、卵も減った。以前は勝手に繁殖していた野生竜は間隙に隠れるようになり、危険を冒して間隙を越えて卵を運び、守るようになった。そこで我々も竜を守ろうとしているわけだが……」
「竜が生まれると思ったら俺たちが現れて、びっくり仰天というわけだ」
「その通り。じゃあ我々の事情は話したから、今度はこっちがたずねる番だ。あれからきみたちはどうしていた? 世界竜から逃げおおせたのか?」
エシュの背中がかすかに緊張したのをアーロンは感じとったが、声にはそれはあらわれなかった。
「世界竜――か。俺たちはたしかにあの竜に食われたというか、吞み込まれたが……あの竜の中にある別の空間に閉じ込められていた。きっとそこは間隙みたいなもので、時間の流れがちがうんだ。どのくらいそこにいたのかなんて、ぜんぜんわからない。俺はそれほど時間が経ったと感じなかった。そうだな、せいぜい……数日といったところだ」
いつのまにかシュウは壁のすぐそばの床に座り、膝を抱えている。イヒカは眉をあげ、先をうながした。
「それで?」
アーロンは竜の胎の中で起きた出来事を想起した。エシュはなんと答えるつもりだろう?
「――で、俺たちは竜がこしらえた得体のしれない世界から脱出しようとがんばったのさ。といっても、何がどうして竜の卵の中に入るなんてことになったのかは俺にはわからん。ただ竜の作った空間に閉じ込められていたとき、ときどき青い光が攻撃のようなものを加えていた」
「青い光?」
「竜石の光だ。だから俺たちがこうしているあいだにも、帝国が竜石を手に入れたのかもしれない、とは思った。その光がおさまった隙に今度は俺たちは真っ暗な……何も見えない空間へ移された。思えばあれが『卵』だったんだ。なぜ竜がそんなことをしたのかはわからない。竜石の光は竜の空間には毒のように作用していたから、竜石の影響がないものを守ろうとしたのかもしれない。とにかく真っ暗の空間に俺たちはしばらくいたが、白い光がみえて、どうもここは壊れそうだってことになって、中で暴れたんだ」
「で、卵が孵るのを待ち構えていた我々の前にあらわれた、と」
イヒカの視線がアーロンとエシュを交互にわたる。
「信じなくてもかまわないぜ」とエシュがいう。
「いや、信じるも信じないも、きみたちがああやって孵ったことが……もとよりなんらかの〈法〉が絡んでいると考えざるをえないことだ。それにこの世には神もいれば、帝国の者がほとんど知らない〈法〉もある」
アーロンは神という言葉に反応しないように努力した。竜の胎を出たいま、アーロンにとって「神」はまったく別の意味をもつようになっている。
カチッと小さな音がきこえ、天井から黄色い光があたりを照らした。タキが操作したらしい。窓の外は薄暗くなっている。
「食事時だな。さて、これからのことだが」
イヒカは世間話でもするような口調でいった。
「エシュ――それにアーロン。行方不明の、死んだと思われている帝国軍人であるきみたちは、山地のここでは私の預かりになっている。つまり客人から拘束された捕虜の扱いまで、きみたち次第ということだ。もし力づくでここを出て皇帝の元へ戻りたいというのなら、私はきみたちを捕虜にせざるを得ない」
アーロンはイヒカの真意を逃すまいと目を細めたが、エシュは軽く背中を震わせた。
「それを俺たちに聞くあなたはなんだ?」静かな口調のなかに怒りの気配が立ちのぼる。「あなたは〈黒〉を――捨てた。あなたはいつから反帝国だったんだ」
「いや、私はそうではなかった」
「ではどうして?」
イヒカの口元が引き締まった。
「神の手によって――といっても、きみには信じられないだろう。きみが神を信じていないことは知っていた」
「今はそうでもないぜ」
「そうかな?」
かつての上官と部下はテーブルをはさんで睨みあい、しばし沈黙した。ふいにアーロンは刺すような嫉妬をおぼえ、そっとエシュの肩に手をかけた。イヒカの視線が動く。アーロンをみてなぜか目尻をゆるめた。
「あとで――いや、明日ユルグと長老たちに引き合わせよう。きみの房のとなりは空いているか、タキ?」
「あいにくと」
「では二人をそこへ」
そのあとタキに連れて行かれた場所は、帝国の辺境基地にある兵舎と同じような空間だった。上下寝台が置かれた小さな部屋へアーロンとエシュが入ったとたん、タキがばたんと扉を閉めた。アーロンは反射的に把手を握り、外から鍵がかけられたのをたしかめた。
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