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【第3部 翼の定位】13.旋風
「連中の話は本当だと思うか」
鍵のかかった扉から向き直り、アーロンがたずねた。
「〈黒〉の竜が竜石の力で皇帝に掌握されている、という話か? 例の……世界竜のことを考えればつじつまは合うな」
「アニマ――」
俺は無言で指を立て、アーロンをさえぎった。ひとつの壁の天井近くに横長に切られた細長い窓があるが、そこからみえる空は暗かった。天井から、さっきの部屋とおなじあかりが黄色の光を落としている。
寝台のむかいののっぺらぼうの壁をすばやく指すと、アーロンは理解のしるしに小さくうなずいた。イヒカが俺とアーロンを独房に分けなかったことに俺は意図を感じていた。単に捕虜を置いておく場所がないだけかもしれないが、どこに目と耳があるのかもわからない以上、うかつなことを口に出さない方がいい。
のっぺらぼうの壁に手を触れながら細長い部屋の奥まで行く。壁の凹んだ部分に蓋つきの便器と手洗いがあり、きちんと水が出るのに感心した。このアジトは帝国がずっと探していた『虹』の本拠なのだろうか。部屋そのものは、辺境でルーに拾われる前に眠っていた部屋に似ているが、当時より設備はかなりましだ。
アーロンが用心深く頭を下げながら、寝台の下段にそっと腰をおろした。
「エシュ」
「ん?」
「ドルンのことは今は考えるな。いずれもっと詳しいことがわかる」
俺は肩をすくめた。「慰めなくていい」
竜の視界からみた光景が意識の奥からよみがえる。棘だらけの頭部に巨大な翼、棘の生えた尾のシルエット――孵化場を守る竜の眼を借りて遠くにみたあの竜体は、たしかにドルンだった。反帝国の地図師によって作られた、この世に同種がまったく存在しない竜。竜石を通じて俺と〈底 〉で繋がった存在。
それなのにドルンは応えなかった。いまの俺は父から受け継いだ竜石を持っていないから? いや、そんなはずはない。俺はもう竜石などなくても野生竜と繋がることができる。見知らぬ竜の眼を借りられるのがその証拠だ。
失望をあからさまにしたくなかった。俺はドサッと音を立ててアーロンの横に座る。マットレスの感触はルーに拾われる前、山地で俺が孤立していたころを思い出させた。ユルグの集会に参加するのを嫌がった俺からタキもだんだん離れて行ったころだ。
タキ。あいつとここで再会するのもおかしなものだ。この展開はアニマ・ドラコーの策略なのか、それともこの世界の外で駒を動かしている神の采配なのだろうか?
「とにかく、またこの世に生まれた幸運をかみしめて、ひとまず明日を待つさ」
俺はむかいの壁をみつめてわざと明るい声でいった。
「飯くらい食わせてくれるんだろうな。一年ぶりの人間の飯がどんなものか、楽しみだ」
「エシュ」
アーロンの手が腰に回ってくる。耳の裏に息がかかり、低いささやきがこぼれた。
「みられていると思うか?」
「ああ、声も拾っているだろう」
「なるほど」
そのまま寝台に背中を倒される。アーロンは堅いマットレスに俺を押さえつけ、靴を脱がせ、自分の靴も脱いで床にほうった。上にのしかかり、俺の顎に手をそえてひそひそ声でたずねた。
「これからどうする」
「あいつと取引したからな」俺も小声でささやき返した。「皇帝から竜石を取り戻す。ここの連中の利害に叶うかどうかは関係ない。反帝国の地図師は既存の〈地図〉を弄って変異体を生み出したが、竜石を手に入れた皇帝は変異体を自分ひとりで掌握し、すべての〈地図〉を集めて辺境を滅ぼそうとしているわけだ」
「竜の話が真実なら、それはこの世界のバランスを壊すことになる。辺境だけでなく、この世界が滅ぶ」
俺は思わず笑いをもらした。
「アーロン、俺たちはいま誰の駒として動かされているんだろうな。神か? あの竜か?」
タキは変異体を作ることで自分たちの首を絞めたといったが、俺のやったことも結局たいして変わりはなかった。こうなったいま、何が俺を動かしてきたのかあらためて考えてみると、俺はまったくもってろくでもない人間なのかもしれなかった。
たしかに俺も帝国軍人だったが、帝国に心からの忠誠を捧げたことなど一度もなかった。皇帝に忠誠を捧げ、命令に忠実に竜石作戦を立案し決行したアーロンとはちがうのだ。
前世の俺が仕事に忙殺され流されていたように、この世界の俺も「他にどうしようもなかった」を言い訳に流されていただけのように思えた。イヒカが消えたあとは皇帝に逆らえないまま自分を捧げ、〈黒〉を守るためだと信じて竜石を渡し、あげくこのていたらくだ。
そしてこのていたらくなのに、今の俺は上にのしかかるアーロンの重みが心地よく、嬉しくて、もう何もかもどうでもいいような気もしているのだった。
「イヒカは……神の手によって、といった……」俺は薄く目を閉じてつぶやく。「いったいどこまでが神の指し手で、どこからがイヒカの意思なのか……アーロン。俺たちには心や意思なんてないんじゃないか? 用意された環境に動かされているだけで……」
「神もすべてを思いのままにはできない。そういったのはおまえだ」
アーロンの唇が俺の頬をかすめる。
「エシュ、俺はおまえに会った。それで十分だ」
「楽観的だな」
俺は目をあけたが、唇が重なってきたのでまた閉じた。温泉で体を洗ったせいか、アーロンの髪も俺の体も鉱物のような匂いがする。壁を調べた時に覗き穴らしいものの見当はつけていた。タキかべつの誰かが見張っているかもしれない、という思いが浮かんだが、見せつけてやればいいという考えにすぐとってかわった。俺はアーロンの首に腕をまわし、足を絡ませてキスを深くする。山地の住居にはもともとあまりプライバシーがなかった。子供のころ、タキと「探検」する途中で、たまに大人の営みを覗き見したものだ。
「エシュ、ユルグという男は前から知っているのか」
キスの合間にアーロンがたずね、俺はぞんざいに答えた。
「俺の故郷のリーダーだった。ユルグも竜のいう『駒』なんだろう……俺は神の声を聞くというあいつにどうも……なじめなくて……」
「あのタキという男は前に話した昔馴染みか」
「よく覚えているな。山地では……親友だった」
アーロンの唇が俺のあごをなぞる。竜の胎のなかではまったく気づかなかった伸びかけの髭の感触がくすぐったい。つまりあの空間にいたあいだ、俺たちの体は時間をとめていたのだろうか。
「俺にはそんな友人はいなかった」
アーロンがぼそっといった。拗ねたような口調に笑いがもれた。
「何いってる。どこでも取り巻きがいたくせに。それにおまえには……俺がいたじゃないか」
「そうだな」
キスしているだけなのに服が乱れ、アーロンの体重を感じながら俺は胸をこすりつける。興奮がつのってくる。壁の向こうで慌ただしく走る物音がきこえた。上の窓のあたりからキイキイという音が響いててくる。口の中を侵すアーロンの舌を味わいながら、俺はぼんやり、あれは竜の鳴き声だと認識する。孵化場を守る竜のほかに、ここにはどのくらいの竜がいるのだろう。
いきなり扉がガチャリと開いた。俺たちは一瞬固まり、それから跳ね起きた。不機嫌な顔をしたタキが立っている。
「おまえたち、あれを呼んだか?!」
俺とアーロンは同時に声を発した。
「何の話だ」
タキは黙って壁の上を指さした。さっきから聞こえていた竜の声はまだ続いている。それどころか、明り取りの小さな窓の向こうに嘴がのぞいていた。嵌め殺しのガラスを打ち破ろうとするかのように窓を叩きつづけている。アーロンがびくっと肩を震わせ、弾かれたように寝台から降りた。
「エスクー! おまえか!」
竜の嘴が小窓を叩き割った。翼が羽ばたく音に、甘えるように鳴く声が混じる。他の竜の鳴き声も混じって騒がしい。彼らの眼を借りるまでもなく、喜びの声だとはっきりわかる。
俺はアーロンがうっとりした表情で窓の方へ手をさしのべるのをみた。そう、アーロンも今は〈底〉で竜と繋がれるのだ。
「あれはおまえの竜か」タキがため息をついた。
「もう飛べないと思ったのに、急に騒ぎ出したから何かと思えば……」
「エスクーはずっとここにいたのか?」
アーロンが問い詰めるようにタキに迫る。剣幕に押されたようにタキは半歩うしろに下がった。
「谷間に墜ちて瀕死だったところを保護した。飛ばないのは翼をやられたせいかと思っていたが……」
「ありがとう」
アーロンはタキへ頭を下げた。
「俺の竜だ。名はエスクー」
ドルンの姿が脳裏によみがえり、俺は胸にのぼってきたどす黒い感情をなんとか押し殺した。エスクーが生きているのは喜ばしいことじゃないか。黄金の竜にまとわりついてさえずっていたツェットが頭に浮かび、俺は唇を噛んだ。俺の竜がここにいないからって、アーロンに嫉妬するなど馬鹿げている。
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