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【第3部 翼の定位】14.篝火

 洞窟の前でアーロンのそばに降り立ったエスクーは申し分ない状態だった。翼には何の異常もなかった。  いつまでも鳴きやまず、離れようとしないエスクーをなだめるために、仏頂面のタキがエシュとアーロンを厩舎がわりの洞窟へ連れて行ったのだ。金臭い竜の匂い、革と干し草と鉱石の匂い、それに狭い空間で翼の擦れあう音は、アーロンに思いがけず感傷的な気分を引き起こした。ひどく懐かしく、嬉しかった。という気がしたのだ。  エスクーに自分の意思を伝えるのも呼吸するようにらくらくとできた。この竜はこんなにも感情が豊かだったのか――という最初の驚きを超えて、アーロンはエスクーに一体化し、お互いに生きていた喜びをわかちあった。喜び――竜から伝わってくるのは炎のように熱く感じられる輝く(イメージ)だ。アーロンとエスクーのあいだを永遠に燃え続ける橋のように繋いでいる。  アーロンは首をのばした竜の瞼の上を掻いた。愛撫されてエスクーは満足そうに鳴く。一度剥がれた鱗や鉤爪は完全に再生している。ふいに竜の眸がくるくると渦を巻いた。ふりむくとタキが奇妙な表情を浮かべていた。 「もう二度と飛べないのかと思っていた。まあ、いい」 「アーロンの竜は優秀だ」  いつのまにかエシュがエスクーの鉤爪の前で膝をついている。 「飛ばすなら爪の上の角質は削ってやれ。タキ、この竜は相変わらず寝相が悪いのか?」 「寝相?」タキは怪訝な表情になった。 「止まり木を使わずにおかしな格好で寝るだろう」 「ああ、そうだな。怪我の影響だと思っていた。ちがったのか」  エスクーから注意をそらすと、竜でないもの、人のざわめきが耳に入る。アーロンは周囲をみまわし、厩舎の隅にたむろした数人――若者もいれば年寄りもいる――が自分とエシュをみつめていることに気づいた。視線に敵意は感じられなかった。老人がニカッと歯を見せて笑い、アーロンに手をあげるとその場を離れた。  タキの表情がまた微妙に変わったので、アーロンは思わずたずねた。 「彼は?」 「シルト老だ。竜の傷にはここでいちばん詳しい」 「では彼がエスクーを治してくれたのか。礼をいわせてほしい」 「明日まで待て」  タキはそっけなく応じたが、アーロンを超えてエスクーに流れた視線は柔らかかった。ぼそぼそと聞こえてきた言葉は独り言だったのだろうか。 「帝国軍の竜も乗り手を慕うとはな」 「意外だったか?」  エシュがすかさずたずねたが、タキは今度はこたえなかった。  またあの狭い部屋へ連れ戻されるにちがいないという予想は外れ、タキがアーロンとエシュを引き連れて行った先は広く騒がしい厨房だった。歩きながらアーロンはこの砦の構造を理解しようと試みたが、岩と木とモルタルで作られた通路の壁はどれも似たり寄ったりで、おまけに曲がりくねっている。帝国の建物は矩形が基本で整然としているのに、反帝国の砦はまるで竜の巣穴のようで、方向感覚が失われてしまう。  厨房は食堂も兼ねているらしく、壁には大きく窓が切られていた。焼いた肉の匂いがアーロンの鼻をくすぐり、胃袋が急に存在を主張しはじめる。タキは窓のない壁の側にアーロンとエシュを座らせると、近くにいた少年に何かささやいた。  アニマ・ドラコーに閉じ込められていたあいだ、俺とエシュの体はどうなっていたのだろうか。アーロンの頭に浮かんだ疑問は運ばれてきたトレイを見たとたん消えうせた。湯気のたつ粥の椀、根菜をそえた肉の切り身と、飲み物のジャグ。 「うまそうだ」  エシュがつぶやいた時にはもう、アーロンは粥を口に入れていた。粥は熱く、甘みのあるやわらかな味で、五臓六腑にしみわたるとはこのことだ。根菜はほくほくとして、味わううちに口の中で溶けた。肉を噛むと歯のあいだでピリッとした香辛料が弾ける。  食べ物をこんなにも美味いと思ったことがこれまであっただろうか。アーロンはしばらく食事に夢中になっていた。粥の椀を空にして顔をあげると、タキがまたも奇妙な表情でこちらをみていた。 「何か?」  タキは肩をすくめた。 「ふたりともろくに飯を食ったことのない孤児のようだ。帝国軍のくせに」  エシュが答えた。 「生まれたばかりだからな。竜の仔もそうだろうが」  人心地ついたアーロンにはようやく周囲の会話が聞こえるようになっていた。自分とエシュが周囲の注目の的になっていることにも気づいたが、腹が満たされたせいか居心地悪さも感じなかった。集まっている人々は男女半々で年齢もさまざまだった。軍隊に慣れたアーロンにはなんとも奇妙な感じがした。 「今日のつけあわせ、できれば塩をもうすこし――」  よく通る声が厨房の方から流れてきて、アーロンは思わず声の主を探した。エシュも同時に顔を向けている。話しているのはシュウだ。「――控えめにしたほうが根菜の味が生きる――」  エシュが吹き出した。 「シュウのやつ、ここでも美食家ぶりを発揮しているらしい。タキ」 「なんだ」 「ここであいつはどんな扱いを受けていた?」  タキの表情に警戒が浮かぶ。「なぜそんなことをきく」 「あいつは俺の部下だ。気に掛けるのはあたりまえだ」  タキの目が細められた。 「今も部下といえるか? イヒカの保証付きの〈法〉の解析師だ。俺たちが尊重しないわけがない」 「帝国の技術者でも?」  そういったエシュの眸に、ふと寂しさのようなものが浮かぶのをアーロンはみた。厨房からはまたシュウの声が聞こえてくる。この場に馴染んでいるのがよくわかる、気安い口調だった。 「……おまえたちがどう思うか知らないが、彼は今の帝国軍には戻りたくないだろうな」  タキが感情をわざと抑えているような、淡々とした口調でいった。 「おまえの竜の恐ろしさを、おまえと同じくらいよく知っているだろうし」  エシュの眉があがったが、それ以上は何もいわなかった。  元の部屋へもどる途中、アーロンはまた竜の声を聞いた。  エスクー。意識をそちらへ向けたとたん、厩舎までの道筋がわかった。アーロンは竜を扱い慣れているつもりだった。帝国軍人ならあたりまえのことである。しかし自分を慕う竜と繋がりを持てることがこれほど幸福な気持ちを生むなど、考えてみたこともなかった。  幸福感にあまりにも浸りすぎていたせいだろうか。エシュの表情が冴えないのにアーロンは気づかなかった。タキがふたりを元の部屋へ押しやって鍵をかけたあと、エシュは上の寝台にかけられた梯子をさっさとよじのぼった。 「休むのか?」アーロンはあわてて訊ねた。 「ああ。疲れた」 「エシュ、ドルンのことは――」 「その話は明日だ。俺は寝る」  エシュはアーロに背を向けて毛布をかぶった。アーロンは立ったまましばらくその背をみていた。慰めたかったのだ。それなのに言葉はついにみつからなかった。エシュは寝息をたてるのをたしかめてから、アーロンは下の寝台に横になった。  翌朝めざめたとき、扉をあけたのはタキではなく、昨日から見張りと称してついていた若者だった。アーロンが名前をたずねても最初は答えなかったが、エシュが笑いながら「とって食いはしないぜ」というと、小さな声で「……シン」と答えた。朝食は竜蜜を塗ったパンで、昨日のように厨房で食べている最中にイヒカがあらわれた。  アーロンはエシュとともにイヒカのあとについていき、またぐるぐると砦の中を歩かされた。通路には上り下りがあり、ときどき屋根のない場所に出たが、そのたびに竜の鳴きかわす声がきこえた。ついにイヒカが足を止めたのは見上げるほど大きな石の扉の前で、三人が並んだとたんに内側から開いた。  アーロンは目を瞬いた。岩の天蓋にかこまれた広い空間の底には竜の卵が鎮座する孵化場があり、アーロンは舞台のようにせりだした石の床に立って孵化場を見下ろしているのだった。  舞台の中央には円卓があり、十ほど椅子が並んでいる。アーロンは目ですばやく六人を数えた。男女半々ずつ、壮年から老人まで。うちひとりは昨日タキが「シルト老」と呼んだ人物だ。  円卓からひとりが立ち上がった。長いローブを着た壮年の男だ。頭頂は竜の卵のようにつるつるに禿げている。 「あらわれたな、エシュ。おまえたちの出現は神の示された道ではない。いまの我々の使命は『虹』を守ることだけだ」 「ユルグ、待て。先に――」  イヒカが口をひらいたときに〈法〉の輝きがアーロンとエシュ、ふたりめがけて飛んできた。力の網が自分の上にかぶさろうとする。孵化場で竜が鳴いた。アーロンはほとんど無意識のうちに片手をまっすぐ上にあげていた――まるでみえない杖を使おうとするかのように。  バチッと音を立てて力場が崩れた。孵化場で竜が鳴いたと思うと羽ばたきが岩の天蓋に共鳴し、二頭の竜がアーロンのいる石舞台めがけて舞い上がる。石の床に頭を突きだした一頭が、ユルグと呼ばれた男に向かってクワッと口をひらく。もう一頭は石舞台に沿って飛びながらくるくると回る眸で睨みつけている。 「悪いが、竜はおまえに耳を貸したくないようだぜ、ユルグ」  アーロンの隣でエシュが指を鳴らした。ユルグを脅していた竜が口を閉じ、エシュの合図を聞いたかのように石舞台から離れる。 「おまえは神の声を聞いているらしいが、俺とアーロンは世界竜の命をうけている。俺たちの話を聞くか? それとも俺たちと戦うか?」

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