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【第3部 翼の定位】15.天籟

「世界竜の――」  俺にむかって繰り返したユルグの頭はきれいに禿げていた。最初はずいぶん貫禄のある頭になったと思ったものだが、ここからは光る傷の痕が斜めに走っているのがみえた。  俺が帝都でユルグに会った時――会ったというより面会を強要されたというべきかもしれないが、あの時の彼はこんな風貌でははなかった。俺はあらためて、アーロンとふたりで竜の卵を蹴破って出てくるまでの時間を意識した。 「俺とアーロンはあの竜の名を知っている。胎の中で竜自身が名乗った」  ユルグは即座に否定した。 「そんなことがあるはずがない。世界竜はこの世の地盤だが、あれもまた神によって作られた道具だ。名前など……」 「おまえが神々の道具であるように、か? ところがあの竜は今、時の流れが生み出す力で生きている」  そのとたんなぜかユルグのひたいに皺がより、顔色がさっと青ざめた。理由はわからないが、痛いところでも突いたというわけか?  「あいつは俺たちも自分の力の一部にするつもりだったが、外からの攻撃に悩まされていた。そこで俺とアーロンは取引をした」  イヒカが口をはさんだ。 「私が聞いた話とはすこしちがうな。エシュ」  俺は肩をすくめた。 「手札を全部さらしてゲームができるか? 今の俺とアーロンはここにいる竜たちと〈(テイ)〉を繋げられる。竜石などいらないんだ、俺たち自身が竜石のようなものだからな。俺たちを敵に回さずに、こっちの望みをかなえる方が賢いぜ」  ユルグのひたいに青筋が浮かんだ。 「おまえは帝都で私を拒否した」 「ああ。おまえは神の声に動かされるまま、俺にアーロンを殺せといった。あいにくだったな。そいつは永遠に叶わないが、今の俺たちなら帝国へ反撃できるぞ」  最後はハッタリもいいところだが、円卓のあいだではざわめきが起こった。ひとりが手をのばしてユルグに触れ、座らせると顔を寄せあってひそひそと話しはじめた。ユルグの禿げ頭はその中でも目立った。彼がまだ若かったころ、俺の父が生きていた時代を考えると、ずいぶんな変わりようだ。  ユルグは父の親友だった。俺が子供のころ、はじめて父に連れられて竜で飛んだときも彼が隣にいたのを覚えている。父が死んで遺品の指輪を俺が引き継いだあと、ユルグはなぜか俺に冷たくあたるようになった。それだけでなくすこし人も変わったような気もして、俺は奇妙に思ったものだ。彼が『神』の声を告げるようになったのも、そのころからだった。  俺は床に膝をついて眼下に広がる孵化場に顔をつきだし、中央に鎮座した虹色の卵を眺めた。孵化場を守っている竜の心が俺に触れる。言葉にならない意思が、俺もこの守護の輪に入るようにと誘ってくるのだが、俺はやんわりと断りをいれた。  俺とアーロンの役目はちがうんだ。俺たちは、おまえたちの脅威を取り除いてやる。  立ち上がってふりむくと、アーロンは壁の前で腕を組み、冷静な表情で円卓の連中を眺めていた。アーロンの静けさは俺を落ち着かせた。  まずはここにいる連中を味方につけること、少なくとも俺に利用価値があると思わせることが肝要だ。それからこの砦の位置を把握することも。  いや、それならすぐにできるんじゃないか? 竜の眼を借りればいいのだ。 「アーロン」俺は隣の男にささやいた。「すこし飛ぶ。支えてくれ」  アーロンの眸が警告するように光ったが、俺の意識はもう竜たちの輪にとらえられていた。そのうちの一頭、上昇気流に乗って山肌を舞い上がる寸前の、まだ若い竜に同化する。朝の太陽に温められた空気に体をのせ、翼を広げて宙に舞う。一気に高所へ舞い上がり、上を吹く風にのって大きく旋回する――晴れた空に敵はいない。俺は眼下に広がる山々をおのれの翼のもとで支配しているような感覚にとらわれる。  しかしこの感覚は俺ではなく、この竜が感じていることだ。竜の心に浸りすぎないようにしながら俺は周囲をみわたし、方角をたしかめ、この砦がどうやって山地に身を潜ませているのかを理解する。この砦の位置も――そうだ、あの先には――  墜落するように自分の体に戻ってきた反動で頭がくらくらした。俺はめまいをこらえながらアーロンの腕にもたれかかる。たいした時間はすぎていないにちがいない。円卓ではまだ議論が続いているらしいが、次にやるべきことの見当はついた。  俺は隣に立つ男にささやいた。 「この砦がどこにあるかわかったぞ。エスクーは俺とおまえをのせて飛べると思うか?」  アーロンは眉をあげたが、すぐにうなずいた。 「飛びたがるだろうな」  俺はアーロンの腕をほどくと円卓に一歩近づいたが、アーロンがすぐうしろにいるのはわかっていた。話し声がやみ、そこにいる全員が俺をみつめた。 「まだ話は終わらないのか? いくら話しあおうとも選択はふたつだ。俺たちがここの竜と勝手にやるのを指をくわえてみているか、協力して皇帝から竜石を取り返すか。これは世界竜の望みでもある」 「たとえ辺境の竜をすべて束にしたとしても――」  ゆったりした口調で俺に答えたのは、円卓のいちばん奥に座る老人だった。昨日厩舎にいた人物だ。タキはたしかシルト老と呼んだ。 「――狂った〈法〉を使う皇帝を相手にするのは簡単ではないぞ」  俺は薄笑いを浮かべた。 「それでも俺たちはやるさ。選べ」  そしてひどく長い一日が過ぎた。  俺とアーロンとの共闘を円卓の連中が了承し、現在の状況を確認し、次に俺たちがこれから何をすればいいかを検討し、できるだけの準備もする、長い長い一日だった。イヒカがいった通り、わずか一年のあいだに反乱者は圧倒的な打撃を受けていた。以前帝国から奪った〈地図〉の半分以上を奪い返され、拠点をどんどん減らされていた。神出鬼没の皇帝部隊――〈黒〉を彼らはこう呼んだ――にあとをつけられるのを恐れ、攻撃に出ることも難しくなっている。  手詰まりになった彼らはふたつの考えのあいだで揺れていた。ここからもっとも近い通信基地を奪い返すか、それともさらに撤退し――辺境からさらに奥の無人地帯まで――雌伏して事態が変わるのを待つか。俺とアーロンが現れなければ彼らは分裂していたにちがいない。ここにいる連中は帝国軍のように、上意下達の命令を絶対にする組織をもたないのだ。  夕食のあとになって、俺たちはやっと与えられた部屋にもどった。 「もう鍵はかけないようだな」  アーロンが扉を閉めながらいった。  俺は背中に担いでいた装備品を床にどさっと積み上げた。タキが見張りにつけていたシンはいまや俺たち専用の雑用係のようになっていたが、食事の前に砦のあちこちからエスクーに騎乗するための装具をかき集めてきたのだ。|二人乗り《タンデム》の鞍やハーネスの調整は厩舎の人間にまかせたが、俺とアーロンが身につける装備は自分で手入れするしかない。装備はどれも使い古されていて、補修も必要だった。 「法道具の使い古しもあればよかったんだが」  俺は床に座り込むと肘あてを持ち上げた。 「アーロン、杖なしで〈法〉が使えると思うか?」 「わからん。ここの人間が保管している〈地図〉があればわかるだろうが」 「共闘することにはなっても、実績を示すまでは明かさないだろう」  俺は肘あての裏のほつれを調べる。 「〈異法〉は竜石なしで使えても、法道具のひとつもなしで帝国軍に通じると思うか?」 「シュウはどうだ」  アーロンは装備品の袋をのぞきながらいった。 「彼はここでも技術屋なんだろう? 何か持っているかもしれない。それに実績はどうあれ、俺たちはもう捕虜ではない。この一年何があったのか、シュウにもっと話を聞いた方がいい」 「ああ、そうだな……」  自分の返事があやふやなのには自覚があった。アーロンが袋を閉じて「どうしたんだ?」とたずねた。 「エシュ、どうした? 俺は敬遠されるかもしれないが、彼はおまえになら話すだろう」  まあ、そうであればありがたい。俺とアーロンが知らないあいだに過ぎてしまった一年という時間が問題なのだ。タキの言葉も気にかかる。 (彼は今の帝国軍に戻りたいとは思わないだろう) (おまえの竜の恐ろしさをおまえと同じくらいよく知っている)  たしかにドルンの外見や能力は恐ろしい。でもあいつは俺の竜だった。 「俺はドルンと〈(テイ)〉を繋げられなかった」  ぼそりともれた言葉は会話の順序もなにもなく、ただ自分の思考をたどるだけのものだった。 「エシュ」  アーロンが俺をみているのが感じられたが、俺はうつむいたままさらに装備を引っ張り出した。控えめな態度からはわからなかったが、シンは気が利くたちらしい。袋には皮を手入れする道具や、竜の世話をする人間には必須のオイルや軟膏類、それに救急薬も入っていた。  いちばん底に小さな瓶がころがっていて、拾い上げてラベルをみたとたん、俺は自分でもわからない衝動にかられ声をあげて笑いだしてしまった。いったい誰の入れ知恵か。 「エシュ?」  俺は笑いをおさめてアーロンに瓶を放り投げた。受けとめたアーロンの目つきが不審なものから驚きに、そして悟ったような微笑みに変わる。 「気が利くじゃないか」  俺はそういって、肩をすくめて装備の確認に戻った。アーロンが真面目くさった声でいった。 「帝国軍でも支給品の申請リストにはあった」 「おまえは風紀にはうるさそうだがな、アーロン」  ちらっと視線を投げるとアーロンは手のひらで瓶を転がしている。潤滑剤と洗浄剤を兼ねたオブラの小瓶だ。セックス以外の使い道もないわけではないが、昨日まで竜の胎の中で素っ裸でいたことを思うと奇妙な感慨にかられた。  たしかに俺とアーロンは戻ってきたのだ。人間の世界に。 「エシュ」 「なんだ」 「ドルンは取り戻せる」  真剣な声に顔をあげるとアーロンは俺の正面に身を乗り出していた。 「エスクーが生きていたように、ドルンも戻ってくる」  俺はため息をつきそうになるのをこらえた。 「それはどうだろうな。竜石で皇帝が何をしたか……あいつは変異体の〈地図〉から実体化した竜だ。エスクーと同じ帝国の竜でも生まれ方からしてちがう」 「大丈夫だ」  アーロンは両手で俺の肩をつかんだ。俺は一瞬ためらったが、結局引き寄せられるのにまかせた。アーロンは俺を寝台に引っ張り上げようとし、俺は装備を床に転がしたまま堅いマットレスに尻をのせる。アーロンの指が俺の髪の房をかきまわし、あごをなぞる。  慰められているのだと思ったとたん、なぜか泣きたい気持ちがこみあげてきた。そんなものまで悟られたくないので、俺は唇を寄せてキスをした。  長い一日が終わりに近づいて、正直な話、すこし投げやりな気分になっていた。だがアーロンは唇を深く押しつけてきて、俺の投げやりさはすぐにあいつの舌に吸収されてしまった。手入れをするべき装備品が気になったが、ここは帝国軍ではないし、マットレスの上にはオブラの瓶も転がっている。  シーツはガサガサした肌触りだった。アーロンは俺の耳を甘噛みし、舌で裏側をなぞって、俺の体の奥に火をつける。狭い寝台の柱に足をぶつけながら俺たちは不器用に服を脱ぎ捨てた。心得た指にあちこちをさぐられて息があがる。俺もアーロンの体をまさぐり、仰向けの姿勢で肌をあわせ、またキスをして、おたがいの昂ぶりを擦りつけあった。 「エシュ」 「ん?」 「軍大学のころ、俺を竜と間違えたことがあっただろう」 「なんだって?」 「地竜の子供と思ったと……」  アーロンの舌が俺の胸を這い、尖りをつつき、強く吸う。息を飲んだせいで俺の答えは途切れ途切れになる。 「そんなこと……あったか――」 「おまえの心はいつも竜に向かっている気がした」  アーロンの声は真剣だった。「いつも嫉妬していた」  いったい何を告白するのかと俺は笑いそうになるが、男の手が尻の方へまわるとそんな気持ちはどこかへ消し飛んでしまう。瓶の蓋を回す音がして、尻の奥にオブラのひやりとした感触が広がる。愛しい気持ちが一気にこみあげてきて、長い指に奥をまさぐられるとたまらず声が溢れた。 「あっ……アーロン、」  俺はうつぶせになって雄を受け入れる。揺すられたはずみに奥をえぐられて、頭の中が白く飛ぶ。マットレスがギシギシとうるさく音をたてている。アーロンの息が首筋にかかり、前に回った手が俺の昂ぶりをにぎり、追い上げようとする。俺はうつむいたまま頭をがくがく震わせ、首のあたりで俺の名前を呼ぶ声になんとか答える。 「おまえは……おまえだ。竜にかえられる……ものじゃない……」  すうっと息をのんだような気配がしてアーロンが動きをとめる。じれったくなって俺は自分から腰を揺らし、すると中にいる男はまた動きはじめ、俺もまた高みへ追い上げられていった。竜の胎でも人間の世界でもいい。おまえがここにいればいい。ぼうっとした意識の片隅で、俺はうわごとのようにつぶやいている。

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