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【第3部 翼の定位】16.忠誠

 洞窟の空気はひんやりしていた。タキが騎乗する竜の翼がアーロンの視界でパタリパタリと揺れ、円錐形に広がる光が暗闇を切り裂く。光はタキの飛行帽のランプから伸びているが、空間の全貌を照らすにはほど遠い。だが竜にはこれで十分だった。エスクーの目を借りられる今のアーロンにはよくわかる。  背後で空気を切り裂くような短い口笛が響いた。 『こいつはすごい』  エシュの声がアーロンの耳殻に伝わる。反帝国の通信機は帝国軍の装備より貧弱だったが、ここではクリアにきこえる。続いてタキの声も聞こえた。 『この通路に〈地図〉はない。俺は道順を知っているが、おまえたちは迷ったら終わりだ』  エシュは即座にいい返した。『知っているのはおまえじゃない、竜だ』  アーロンとエシュは背中合わせにエスクーの鞍に座っている。ふたりの飛行帽からも小さなランプが洞窟に光の輪を描いている。竜が飛んでいるのは信じられないほど巨大な洞窟の中空、地底を流れる川の上だ。  竜の背から水をみつめると、アーロンのランプが水面を緑色に輝かせた。エスクーは力強く翼を羽ばたかせてタキの竜のあとを追い、真横に並んだが、洞窟の左右の壁はずっと遠かった。 『タキ、この洞窟は竜でなければ通れない。そうだろう』ふたたび耳にエシュの声が響く。『地下水脈が陥没して空洞になったんだろう。こんなものがあるとはな。まるで竜の間隙だ。辺境で反帝国が神出鬼没だった理由のひとつはこれか』  なるほど。アーロンも腑に落ちた。アーロンが〈黄金〉に配属されたころ、辺境に近い帝国の拠点を反帝国が奪取するたび、どうして彼らがそんなに素早く移動できるのか参謀本部は首をひねっていた。しかし〈地図〉のない地下のルートがあるのならうなずける。  タキの竜もエスクーも十分な速度で飛んでいるが、時々するりと体を傾け、ゆるく方向を変えた。そのたびにアーロンの視界には、花びらの彫刻のように石の結晶が固まった巨大な柱があらわれる。暗闇に出現する石柱の迷路を竜の背に乗って通過するうちに人間の方向感覚はたちまち狂いそうになるが、竜の翼は迷いもなく動いている。彼らは水脈の流れや気流の動きを感知しているのだ。  やがて前方に青い光がみえた。  アニマ・ドラコーに呑まれていたときにみた光を思い出してアーロンは警戒したが、まもなくあらわれたのは円形に広がる青い水の溜まりだった。はるか上の岩盤に丸く穴があき、日光が水面を照らしている。水平に飛行していたタキの竜は急速に上昇をはじめた。 『出るぞ』  タキに確認されるまでもない。エスクーが噴射してあとに続く。光の差しこむ地底湖は宝石のような深い青に輝いていた。アーロンはエシュと同時に姿勢をかえ、エスクーが垂直上昇するのに備える。  岩盤の出口はエスクーがやっと出られる程度の大きさだ。真下は深い水面で、人がここから出入りするにはロープを使ってボートを降ろさなければならないだろう。たしかにここは竜でなければたどれない道だ。  斜めに首をのばしたエスクーがやがてほとんど垂直に上昇する。竜が噴射する独特な匂いを感じたとたん、アーロンはエスクーの視界に飛び込んでいた。岩盤、空――吹きつける風を全身に感じた時はもう地表へ飛び出していた。上空から見下ろした地底の出口は人間には近寄りがたい岩山のあいだに隠れていた。前を飛ぶタキの竜が山陰に入り、山肌を覆う森へ降りる。  その森を超えた先の地形をアーロンはよく記憶していた。かつて作戦のために派遣された帝国の基地があるからだ。軍大学で別れて以来、はじめてエシュと再会した場所だ。  自分がずいぶん遠くまで来たような気がして、アーロンはふとめまいを感じた。背中合わせで鞍に座るエシュはどう感じているだろう。  エスクーはタキの竜の隣へ着地した。アーロンは色づいた木の葉に隠れるように指示したが、竜の背からは降りなかった。ベルトを外し、緊張した体をゆるめる。ふりむくとエシュも同じように体をのばし、あくびをした。 「ああ……やっぱり、飛ぶのはいい」  タキが咎めるようなまなざしをエシュにむけた。 「だらだらするな。暗くなったらすぐ行くぞ。長老はおまえたちを信じたが、俺はそうじゃない」 「帝都まで俺をスカウトに来たくせにそれか」 「俺は竜の話をしているんだ。それにおまえたちの力もな。あの基地の哨戒竜とすれ違って、それから何ができるって?」  エシュはタキの不機嫌な声にとりあわなかった。ポケットに手をいれて携帯食の袋をとりだし、外装を剥きながらのんびりといった。 「もちろん、呼びかけるのさ。(テイ)を繋ぐんだ」  夜闇のなか、竜の知覚をとおして眺める帝国軍基地はまるで光る首飾りのようだ。タキの竜とエスクーは暗闇にまぎれて飛び、ふたたび森の木立に舞い降りる。近づきすぎると基地の遠望監視にひっかかる。 「この基地はこの一年、ほとんど動いていない」  タキはそういいながら竜の背から降り、太い木の幹によりかかった。飛行帽のランプは消したままだ。 「以前は〈紅〉と〈萌黄〉の部隊が駐留していたが、今は完全なバックアップだ。こちらの見立てでは人より竜の方が数が多い。まあ、こっちが静かにしているせいだろうが。じきに哨戒兵が飛ぶ」 「数は?」  アーロンは地面に降りながらたずねたが、答えたのはエシュの方だった。 「イヒカが団長だったころ〈黒〉はこの基地に年に一度は来た。それから変わらないのなら、通常哨戒は竜二頭で南と北からだ。ここからなら……」  エシュはまだエスクーの鞍に座っていた。目を細めて梢のあいだを眺め、空の一角を指さす。 「あっちの方向だ」  まもなく翼が風を切る音を感じたように思ったのは、エスクーの挙動のせいだった。人間の耳には聞こえるはずがないのだ。タキの竜は梢の影でおとなしくしているが、エスクーの首はぎゅっと上に伸び、闇の中で眸がくるくると渦巻く。  エシュがすばやく前の鞍にうつり、ハーネスを握った。 「エスクー、落ちつけ――」  しかしエスクーはばさりと翼をひらき、上体を傾けて飛び立ちそうな姿勢になった。アーロンは落ち着かせようと竜の鱗に手をのばした。と、鞍に座ったエシュがぽつりとつぶやいた。 「ツェット。おまえか?」  キュイ! エスクーが鳴いた。鉤爪が地表を蹴る寸前にアーロンは竜の装具をつかみ、どうにかその背に這い上がった。さっきとは逆の位置の鞍に転がりこみ、安全ベルトを締める。竜は急速上昇しようとしていた。  タキが「戻れ!」と呼ぶ声が聞こえたが、すぐに羽ばたきにかき消される。エスクーはまっすぐ夜の空に舞い上がり、やがてアーロンにも帝国の竜がみえた。  竜の装具は夜間飛行用の照明で光っている。その明かりの輪に入る前にエスクーはもっと上まで飛んだ。帝国の兵士はのんびりと下界を見渡しているが、上にいるエスクーに気づいていない。 『エシュ、どうしてエスクーは飛んだ?』 『あれはツェットだ。アーロン、エスクーを押さえてくれ。呼びかけてみる』  ツェット。その名前にはアーロンも覚えがあった。〈黒〉副官時代のエシュの竜だ。|黒鉄《くろがね》竜があらわれたときに負傷して翼を折ったのではなかったか。  アーロンは竜の背でバランスをとりながら竜のハーネスを握ったが、どうしてエスクーが飛び立ったのか理解できずにいた。  その時だ。エシュがツェットに呼びかけた。  ――そうはいっても、竜に語るエシュの言葉がアーロンの耳に届いたわけではなかった。ただ意思の流れのようなものがツェットに向かうのを感じたのである。ツェットの首が動く方向に帝国の兵士が視線を投げ、ハーネスを引いた。そのとたん、ツェットは斜め上に錐もみ旋回をはじめた。 「う、うわぁあああ?」  前触れなしに竜の背から振り落とされて、兵士には何が起きたのかわからなかったようだ。すぐに緊急信号が送られたのだろう。基地の信号灯が光り、アーロンは内容を読み取った。竜が暴走、救援求む。  乗り手を振り落としたツェットは旋回し、エスクーの方へ飛んでくる。ツイツイツイ……という鳴き声が夜の闇を切り裂いた。ツェットがエスクーに呼びかけている。  笑い声が響いた。エシュが笑っている。腹の底から楽しそうにほとんど立ち上がらんばかりに鞍の上で上体をのばして、風の中で立っている。ツェットの胴体がエスクーと並んだ。最後にアーロンが見た時はみじめに折れまがっていた片翼も、今はまっすぐにのび、力強く羽ばたいている。  エシュがふりむき、アーロンに親指を立てた。その瞬間アーロンは吸いこまれるように自分が乗っているエスクーに同化していた。竜の心は喜びに躍動していた。友と再会できた喜び、また飛べる喜び。エシュがああやって笑うのも当然だ。 『タキ、確認した。帝国の竜も〈(テイ)〉は繋がるぞ』 『成功か』  不愛想な返事を聞きながら二頭の竜はタキが待つ方向へ旋回し、風を切った。タキの待つ場所へ降りる手前で、ふとアーロンは不穏な気配を感じた。エスクーの心に陰りがさしているのだ。アーロンはエスクーの感情に意識をかさね、暗い恐れがエスクーを満たすのを感じとった。何かがすさまじい速さで近づいているのだ。それは真っ黒の恐怖のかたまりで――。 『エシュ。何かおかしい』  呼応するようにタキの声が通信機から響いた。 『俺の竜の様子が変だ。皇帝の竜かもしれない。戻るぞ』 「ドルンだ」  風のあいまにエシュの声が聞こえた。さっきの愉快そうな笑いの気配はかき消えている。 『タキ、アーロンとエスクーが先に行く』 『先に? どういうことだ?』 『俺は最後尾でドルンを確認する』 『何いってる。二人鞍(タンデム)だろ?』  エシュはタキに答えず「アーロン、すこし揺らす」といいながら鞍の上にまっすぐ上体を起こし、安全ベルトを外した。アーロンはぎょっとした。 「おい、何をしている?」 「俺はツェットに移る。――ツェット!」  言葉は音声で発せられると同時に、竜の心に直接呼びかけていた。あっという間のことだった。エシュは怯えた竜の背の上でまっすぐに立ち、すぐ横を並行して飛んでいる帝国の竜へ跳躍した。  しなやかな体が宙を舞い、次の瞬間、小柄な竜の背にかぶさる。両足がずるりと滑るのをみてアーロンはひやりとした。だがエシュの両手は竜が負う帝国軍の装備をしっかりつかんでいる。  アーロンはエシュが落ちなかったことにほっとしたものの、エスクーから伝わる恐怖はこれとは別物で、しかも大きくなる一方だ。エシュはツェットの背中にまっすぐ座り、なだめるように首を叩いている。 「俺を覚えていてくれたな、ツェット。大丈夫だ。俺が連れて行ってやる」

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