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【第3部 翼の定位】17.騎虎
恐怖は伝染しやすい感情だ。
生き物の本能に直接はたらきかけ、孤立させる。圧倒的に恐ろしい存在を前にすると、そこから逃亡し息をひそめて隠れるか、その恐ろしい存在に頭をたれ、おとなしく従うかのどちらかを選ばざるをえなくなる。人も竜もおなじだ。
帝国軍の竜であるツェットは、ドルンの接近を感じても他の竜のようにパニックに陥らなかった。森へと空中を下降する竜の鞍から別の竜へ飛び移るなんて真似をした俺のほうが彼を驚かせたかもしれないが、曲芸めいた飛行ならツェットも得意だったはずだ。俺のむかし馴染み、ふるい親友。そうだよな?
俺は足の下にいる竜に呼びかけ、ツェットからはひどく懐かしい感じのする反応が戻ってくる。嬉しいけどすこし面倒くさい、そんな感じの反応だ。そう、これこそがツェットだ。
竜の鞍に腰をおちつけ、ハーネスを握り、エスクーのあとをついて飛べと指示する。アーロンがエスクーの背から俺に手をふり、黄金の竜の尾はすぐに俺とツェットの前に出る。ツェットの竜鞍は帝国軍の標準装備品だが、俺が知っているものと多少仕様がちがう。改良されたのだろうが、帝国の兵士を振り落としたときに安全ベルトは落下したらしい。
俺は前かがみでハーネスを握り、ツェットに知覚を同調させる。竜の視界は人間よりも広い。すべてを理解することなんてできやしないから、俺はただ竜に没入する。エスクーを追えという指示にツェットは喜々として従った。他の竜は怯え切っているというのに、ツェットはドルンが近づいても平気なのか。やはり帝国軍の竜は――と思った時、片方の翼が重くなった。古傷がある方だ。同時に俺はドルンを感じた。重い灰色がのしかかり、命令してくる。
おまえは余のものだ。
怖れよ、従え。
ツェットがためらった。俺は無理やり竜の注意をエスクーに向けさせた。こいつは俺にまかせろ、とツェットに呼びかける。
おまえはエスクーよりあれがいいのか? おまえを押さえつけ、いいなりにしようとするものが?
あれは竜にみえるが竜ではない。あれの相手は俺がする。恐れるな。
ツェット、おまえはおまえが惚れた相手についていけばいいんだ。
クゥ、と竜が鳴いた。翼がふたたび強く羽ばたいて、森へ急降下するエスクーに続く。俺はツェットに知覚を同調したまま上空で俺たちを追う竜に呼びかけた。
――ドルン。俺だ。
だがドルンの心は鉄の装甲に覆われているようだ。怖れよ、という響きだけが拡声器でもつけたように四方八方にまき散らされる。他の存在など知ったことじゃない。群れなんてどうでもいい。自分には無限の力があり、世界は自分にひれ伏すのだ。ドルンの心は竜石でつくられた鎖でがんじがらめにされている。竜石の持ち主がドルンを縛っているが、竜にはそれすら感じとることができない。
こいつは本当にひとりになってしまったな。
〈黒〉の変異体を率いていたドルンを思い出し、俺は絶望的な気分になる。今のドルンに群れはないのだ。帝国軍の竜をこいつは追い立てることができるだろうが、それもただ従わせているだけだ。群れっていうのはそんなものじゃないだろう?
だが、力で従わせているのなら、もっと強い力で対抗すればいい。俺にできるだろうか。
ドルンのスピードは速かったが、エスクーは森の木立すれすれを飛び、地底の洞窟へ逃げ込もうとしている。ツェットはエスクーに追いつこうと必死だ。星明りに照らされて、アーロンの頭がエスクーの背にちらりとみえる。ドルンは俺たちを視野にいれたのか、明確にこちらをめざしてくる。距離をつめれば俺はドルンと――または、ドルンを竜石で支配している者と対決できるかもしれない、という考えがうかぶ。
脳裏に皇帝の顔がみえた。俺を裸にして辱めては楽しんでいた顔だ。
木立がだんだん迫ってきて、俺はアーロンの姿が緑のあいだに埋もれるのを確認する。ツェットの鉤爪が梢をかすめた衝撃が陰鬱な記憶から俺を引き戻した。ドルンから意識を切り離して、俺はツェットの知覚に完全に埋没した。逃げて帰還することしか考えないために。
ドルンの巨体が森の上を覆った時、ツェットとエスクーは地下へ広がる洞窟の中へ飛び込んでいた。タキの竜はもうそこにいた。俺たちがあらわれたとたん、すばやく移動をはじめる。洞窟の中は真っ暗だ。タキがつけた小さな明かりしかみえないが、竜は反響で距離をはかりながら正しく道を進んでいた。とはいえ、ツェットはエスクーを追っているだけだろう。
『ふたりとも無事か。無茶しやがって』
通信機からタキの声が響いた。
『無茶ってことはないさ。タキ、あの竜はどんなふうに出現するんだ』
俺の問いに対してタキはすこし間をおいた。
『いつもは帝都にいる。愛玩動物みたいに皇帝の座所にいるのを協力者が確認している』
『あんなでかいやつを?』
『効果は抜群だな』
それを確認できる協力者は誰だと聞きたくなったが、ききたいことは他にあった。
『だが、帝都から飛んでくるのか? あんな距離を?』
『たぶん間隙を飛ぶんだろう。今は興味をひくもの……自分の獲物になりそうなものを感知すれば飛んでくるようだ』
アーロンが飛行帽のランプをつけた。丸い光の輪が宙に浮かぶが、逆に洞窟の広さを実感する。俺も自分のランプを灯し、岩に含まれる鉱物が星屑のように光るのをみた。
『半年前までは帝国軍を率いていたから、最近のように神出鬼没じゃなかった。あれもひどかったが。帝国の竜はあいつが先頭にいると狂ったようなふるまいをする。最近は軍の出動はない。俺たちが隠れているせいだろう。そのかわりああやって、無人で辺境を飛び回る。野生竜を脅し、気に入らないものは殺してまわる。まあ、暇だから好き勝手にやっているという感じだな。皇帝と同じだ』
皇帝と同じ、か。アニマ・ドラコーの言い分では皇帝もまた神々の「駒」であるはずだが、本当に神々の望みにしたがうなら、野生竜を〈地図〉にするのならともかく、殺戮してまわるのはあまり理屈にあわない。しかしかつては神々の創造物だったはずのアニマ・ドラコーが自律した意思で動くようになっている以上、「駒」も神々の意図からとうに外れているにちがいない。
『エシュ、ドルンは反応したか?』
アーロンがたずね、俺は淡々とこたえる。
『ドルンは孤立している。帝国の竜はドルンを恐れて従うが、群れを統率してはいない』
『だからどうなる?』とタキがきく。
『帝国軍の竜はドルンの群れじゃない、つまり簡単に造反させられるということだ』
『おまえが乗っている竜のようにか?』
『強い動機、あるいは群れをまとめるものがいれば、そっちについていく』
たとえば俺やアーロンが群れを統率すれば。竜を奪えば帝国軍の威力は大幅に減るだろう。とはいえ辺境の基地をひとつひとつ潰していくのも時間がかかる上、皇帝の操るドルンに発見されると殲滅の危険がある。だとすると――俺の頭の中にひとつの筋書きが立ち上がる。
『いいことを思いついたぜ』と俺はいう。
『なんだ?』
『アーロン、おまえひとりで帝都に戻れ。イヒカを捕虜にして』
タキの方が反応が早かった。『なんだって?』
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