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【第3部 翼の定位】18.追憶

「筋立てはこうだ。竜石作戦の目撃情報は間違っていた。アーロンは意識を失ったところを反乱軍に捕まり、その後は山地で捕虜にされていた。一年経ち、反帝国が弱った隙にイヒカを人質に脱出、基地にたどり着く」  迷いのないエシュの声が石の壁に響き、投影された図面の上を赤い駒が動いた。エシュとアーロンの周囲は砦の長老をはじめとした人々に囲まれている。彼らの注視もなんのその、エシュは腰に片手をあてて不敵な笑みを浮かべていたが、アーロンは不審そうなささやきが湧くのを聞き逃さない。 「そしてどうするっていうんだ? ここは撤退か?」 「だいたい竜石を奪って今の状況を作ったのはこいつじゃないか」 「帝国のアーロンだぜ。塵の悪魔(ダストデビル)だ」  エシュはささやき声の方へ首を傾け、ひらひらと手を振った。 「なつかしい二つ名だな、アーロン。今、帝都でアーロンは何と呼ばれている? そのくらいの情報はあるか?」 「きついことをいう」  イヒカが肩をすくめた。エシュの問いは、この一年のあいだに反帝国が頼りにしていた情報源が大幅に減った、という事実に基づいていた。帝国軍は何年ものあいだ、帝都に潜む『虹』やそのシンパの摘発に汲々としていたというのに、竜石作戦のあとは様変わりしたという。 「アーロンの墓には『竜石の英雄』と刻まれている。帝都のメディアが大々的に報道したよ。生きて戻ったとなると……ひと騒動起きそうだ。死んだ英雄は帝国への忠誠心を高めるだけで何もしないが、生身の人間はそうはいかない」  そうか。帝都には自分の墓があるのか。アーロンははじめてそのことに思い至った。今まで考えもしなかったのである。 「それこそが狙いだ。騒動、混乱は俺たちの味方だ」  エシュは平然といった。 「アーロンは基地司令にイヒカとともに至急帝都へ戻りたいと要求する。竜石をもたらした英雄の真の帰還だ。皇帝陛下は否とはいわないさ――少なくとも最初は」 「私はどうする?」  長老たちのあいだから、イヒカが皮肉っぽい口調でたずねた。 「前はどうやって逃げた」 「あいにく私には答えられない。きみにはわからないと思うが、この世には神の手が働くことがあるのだ」 「わかるさ」エシュは肩をすくめた。「拘束具の解錠装置はシュウが用意できるだろう。タイミングをあわせて自力で脱出するんだ」  エシュは〈黒〉の元団長にどんな思いを抱いているのだろう。アーロンは突然そう考えたが、これは以前のような苦い嫉妬から生まれたものではなかった。もちろんアーロンは忘れてはいなかった。学生時代、エシュはアーロンの眼前でイヒカと関係を持とうとした。それに〈黒〉の団長と副官の親密さは口さがない噂にものぼっていた。  エシュがイヒカをどう思っているのか。推し量れるような気がする一方で、まったくわからないようにも感じた。恋人や愛人、その他世間が思うような関係でなかったにしても、エシュはイヒカを慕っていた――それはたしかだ。  イヒカが消えうせ、〈黒〉を解任されたときのエシュの表情をアーロンはよく覚えていた。親に捨てられた子供のような、空白の表情だった。  エシュは正面に向きなおる。自分とアーロンをみつめる目にいっさい臆することなくいいはなつ。 「あんたらの中で、俺とアーロンを信じられない者は、竜だけが知る道を通って無人地帯に隠れていろ。俺たちは内側と外側、二方向からの攻撃で帝国に対抗する。帝都にアーロンが潜入し、帝都を守備する竜部隊を解放する。もう一隊は帝都の外から動き、中枢の動力源を押さえる」  エスクーの首にツェットが頭をすりつけ、ゴロゴロと唸り声をあげていた。甘えているのだ。エスクーもまんざらでないらしく、二頭の竜は頭をこすりつけあって喉を鳴らしている。  アーロンが砦から偽の逃亡を図るのは明朝と決まった。この場所を知られないようにまた地底の道を通るが、今度はもっと大回りすることになる。  シュウはツェットにつけられていた帝国軍の装備をほんの数日で改造し、通信装置も解析していた。  厩舎がわりの洞窟の隣に専用の工房のようなスペースを与えられ、ふたりの若者を助手にしている様子は、もはや完全にこの砦の技術者だ。  アーロンを見る目つきはよそよそしかったが、帝国軍のときのような敵意は感じない。とはいえその視線にはどこか含むものがあり、アーロンは理由を知りたくなったが、タイミングを逃した。イヒカが真顔で「私を連れていく方法は?」とたずねたからである。 「あなたを脅して案内させ、出たところで失神させて、後ろ手に手枷でエスクーの鞍にのせる。このくらいは必要だろう」 「やれやれ、ひどいな」 「奥歯に解錠システムを仕込もう」シュウがいった。 「通信基地に潜入出来たらコードを手に入れてほしいね。僕がここに来たころはあの基地にスパイがいたらしくて、コードが変更される前に知らせてきた。連絡がなくなって半年たつ」 「コードか。潜入者の名前は?」エシュが腕組みをしてたずねた。 「アラウン。きっともうあそこにはいないが、画像は渡しておくよ。こっちの情報が質量ともに落ちたのはこの影響がでかい。情報をどうやって送る」 「こいつの中心に〈法〉の焦点を絞って信号を飛ばす。共通符号を暗号化するだけでいい」  シュウは〈地図〉によく似た四角いキューブをほうった。 「対になる竜石が入っていて、こっちは片割れで受信する」 「エスクーの装備はどうする?」とアーロンは聞く。 「大袈裟にするとこちらの手の内がばれる。鞍とハーネスだけじゃまずい?」 「竜はそれで大丈夫だろう」  アーロンがうなずくと同時にエシュがいった。 「なあシュウ、法道具はないか? 杖や銃や――いや、なんでもいい」 「法道具ね。あまり状態のいいものはない」  シュウは埃だらけの大きなコンテナを開け、杖やアクセサリー型の法道具を取り出して並べた。どれも古びて、先端や持ち手が欠けているものもある。それでもアーロンは古い杖をとり、久しぶりに〈法〉の感覚を手のひらに感じた。エシュはコンテナの底をのぞきこんでいる。 「こいつは?」  顔をしかめながら持ち上げたのは、古い鞘に入った長い剣だ。 「見覚えがあるぞ。どこでこれを?」  シュウは怪訝な目つきになった。 「さあ? 誰かが拾ってきたんだろう。ここにある法道具のほとんどは帝国軍と戦ったあとに回収されたものだ。帝国と辺境のものが混じっている」  アーロンはそっとエシュの肘に手をかけた。 「エシュ。貸してくれ」  エシュは気乗りしない表情のまま、アーロンに剣の柄をあずけた。握りはアーロンの手にしっくりなじみ、重みもバランスも申し分ない。鞘を払えば自分の指先から〈法〉の輝きが剣全体にいきわたり、刀身が白銀に輝く。 「あれ? いい感じじゃないか。その剣、誰の〈法〉とも相性が悪かったんだ」シュウが目をまるくしていう。「ストレージには何か入ってる?」 「何も。この剣、どこかで握ったことが――」 「そうだろう」エシュが渋い声でいった。 「この剣がどこから来たのかはわからない。だが、帝国軍の掃討作戦のあとに発見したのは俺だ。皇帝はこの剣の存在を神のお告げで知っていた。俺はこれを皇帝から賜り、アーロンを殺せと命じられた」  シュウの表情が凍りついた。 「――何だって?」  その瞬間、アーロンも自分がいつこの剣を握ったのかを思い出した。エシュはうんざりしたような表情になった。 「面白い話だろう。実際に何が起きたかというと、アーロンは俺を助けようとしてこの剣で世界竜に斬りかかった。その結果俺たちは剣ごと竜に呑まれたのさ」 「そんな代物がどうしてここに?」 「さあな。神の采配か、竜の采配かもしれん」 「待てよ、エシュ。皇帝がアーロンを殺せと命じたって? だったら帝都に戻ったら……」 「そこにはこみ入ったいきさつがあるんだ」エシュは小さくため息をついた。 「だが、今の帝国がアーロンを死んだ英雄として讃えているのなら、皇帝も生きて戻ったアーロンをそのまま退けられない。おい、アーロン。そいつをどうするんだ」  アーロンはすでに剣を鞘におさめていた。 「持っていく。この剣は俺に属するものだ」 「好きにしろよ」  エシュはアーロンと剣を交互にみつめ、首を振った。  剣を背に負って厩舎に戻ると、エスクーとツェットはまだじゃれあっていた。今度はエスクーがツェットの首に頭をおしつけている。なかばひらいたツェットの翼がエスクーを覆うようにかぶさっていた。エシュは肩をすくめただけで何もいわなかったが、アーロンは二頭の竜を眺めるうちに落ちつかない気分になった。  ひとりで先に部屋へ戻り、剣を外す。鞘を払って掲げるだけで、アーロンの内にある〈法〉の力が刀身に流れこんでいく。不思議な感覚だった。 「アーロン」  ふりむくとエシュが静かに扉をしめたところだった。アーロンはなぜか悪戯を見つかったような気分になり、すばやく剣を鞘におさめた。  窓から差し込む光がエシュの髪にあたり、金色の筋がきらめく。共に過ごせるのは今だけだ。そう考えたとたんにさっきの落ちつかない気分が明確な興奮にとってかわった。アーロンは二歩でエシュの前に立ち、両手のひらで黒髪の男の顎を包みこむ。  エシュの眸がアーロンをのぞきこんでいる。唇を重ねると、すぐに舌を絡める深い口づけになった。立ったままお互いの背中に腕を回す。熱っぽい吐息とともに唇が離れると、エシュの唇が小さく動く。 「すぐに会えるさ。最終的な目標はドルンを獲って帝都を落とすことだ。おまえと俺で、帝国の竜を寝返らせるんだ……」 「ああ。帝都の……宮殿の情報を手に入れなければ」  アーロンはエシュの腕を引いた。ふたりしてマットレスの上に倒れ込み、服を着たまま首筋や頬に唇を押しつけあう。 「基地で情報を集めてくれ」荒くなりつつある呼吸のあいまにエシュがいった。 「帝都に送ったスパイは一網打尽にされたというが、タキによれば匿名の協力者がひとり残っているそうだ。ただし連絡は一方的、今はなしのつぶてだと」 「帝国――皇帝を恐れるわけだ」  手が絡みあい、それぞれの服を脱がせようと性急に動いた。下半身の昂ぶりを押しつけながら、ふたりはもつれるようにマットレスの上を転がる。 「おまえも怖いか? アーロン」  エシュがアーロンの顎をとらえてささやく。 「俺は恐怖を感じないたちだ」  エシュが小さく吹き出した。 「あっさりいうな」 「本当だ。子供のときからそうだった。まわりの人間が何を怖がっているのか不思議だった。もしかしたらアニマ・ドラコーのいうように、俺が神々の駒だから……そうなのかもしれない」  エシュは指をのばし、アーロンの裸の胸をなぞった。 「おまえは誰かに動かされるような存在じゃない。おまえはおまえ自身だ。アーロン」  俺自身、か。  アーロンはエシュに覆いかぶさり、胸に唇を這わせ、舌で敏感な場所をなぞる。震える肌に歯をたて、唾液で濡らし、熱を帯びた下半身をこすりつける。  これから行う作戦は、実は「帝国軍のアーロン」なら却下しそうな不完全な作戦だった。だが竜の胎でアニマ・ドラコーと話し、その卵から蘇るというありえない出来事を体験した今、完全や不完全を考えること自体、およそ無意味なように思えた。その時にできることをするしかないのだ。 「……アーロン……俺たちはいま……竜と繋がることが……できる」  エシュの声はアーロンの愛撫にこたえて甘くかすれはじめている。 「おまえとも……繋がれないか……と……んっ……」  アーロンはエシュの濡れた尖端をするりと撫でた。 「ここ以外に?」 「馬鹿、意味くらいわかるだろうが……」  エシュの息が荒くなり、言葉はもう続かなかった。両足をひらいてアーロンを迎えいれ、揺さぶられながら悦びの呻きをあげる。  翌日の夜明け前、アーロンは暗い中で身支度をした。持ち物は最小限で、ただ剣を背負うだけだ。  地下の竜の道の入口へエスクーを連れていくと、先に来ていたイヒカが手を振る。エシュ、シュウ、タキ、そしてシルト老もいた。  イヒカは得意の皮肉を飛ばすこともせず、静かな出発だった。アーロンはイヒカのあとから竜の背に上がり、人々を一度だけふりむいてから、エスクーを飛び立たせた。

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