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【第3部 翼の定位】20.鬼謀

「やれやれ、二人鞍(タンデム)なんて学生の頃以来だってのに――おおっと!」  余裕たっぷりのイヒカの声がエスクーが急上昇した瞬間に崩れる。思わず口元がゆるんだが、アーロンにも余裕などそれほどない。竜はほぼ垂直の姿勢で地底の洞窟から抜け出そうとしており、乗り手は鞍に縛りつけられてなんとか竜の背にしがみついているのだ。  エスクーは岩の裂け目を滑るように、翼を半分畳んだまま森の中へ飛び出す。アーロンの指示に忠実に、すばやく水平飛行に体勢をもどし、大きく羽ばたいて梢の下ぎりぎりを飛ぶ。エスクーの大きさの竜にとって、こんな飛行はありえないほどの忍耐と持久力、それに忠誠心のたまものだ。 「――たいしたものだ」  次に背後から聞こえてきた声には、感嘆を通りこして呆れたような響きがあった。 「こんな風に竜に無茶をさせられるのは、エシュだけだと思っていたよ」  アーロンは戯言を無視した。 「予定地点だ。降下場所を探せ」  エスクーはアーロンに忠実に従った。木々の根が絡みあうあいだのわずかな空間に着地する。枝をひっかけたり、唸り声をあげることもしない。軍用種の騎乗竜はタフで、新陳代謝の効率も標準種よりずっといい。砦を発つ前に十分食事をしているから、水を飲む必要もない。  人間はそうもいかなかった。アーロンは背に負った剣をはずし、イヒカと並んで木の根元に座り、携帯食を齧った。  イヒカは雑に束ねた金髪を払い、水筒の水をちびちび飲んでいる。 「不思議な気分だよ。きみと横並びで座っているとは。どのくらい待つ?」  砦の携帯食は粉っぽかった。アーロンは舌に残った味を水で洗い流し、木の葉のあいだの空を見上げた。 「竜が知っています。あなたは黙って待っていてください」 「丁寧な返事をありがとう。待ちきれないな」 「行動開始時には拘束されるのをお忘れなく」  イヒカは唇のはしをあげて笑った。 「手土産が私で基地司令は納得するかな?」  アーロンは肩をすくめた。 「我々は成功します」 「我々」  イヒカは意味深にくりかえした。 「きみたちが世界竜の崖で消えて一年。皇帝が竜石を手に入れて一年だ。最初の半年に帝国は猛攻したが、この半年は終わりを待つだけの時間だった。それがたった数日のあいだに思いもよらない展開だ」  アーロンは横目でイヒカをみやったが、木の影におおわれて金髪の男の表情はわからなかった。 「あなたはいつから反帝国だったんです」 「私?」声にかすかな笑いがまじる。 「私が『何か』であったことなどずっとなかった。逆さ。『何か』が私に介入し……私に憑依するんだ」  アーロンは今度こそまじまじとイヒカをみつめたが、相手は目を伏せたままだ。 「私を使うがある。宮廷の周辺――皇帝の周辺には時々私のような者が生まれる。神の手と呼ぶ者もいて……まあ、それはいい。皇帝陛下が一時期私を左側に置いたのも、私を通してその『何か』と話していたからだ。少なくとも私はそう信じている。皇帝陛下が直接その手だか声だかを受け取れるようになると私はお払い箱になった」  まるでひとりごとのような、長いつぶやきだった。 「その手が降りた時に自分が何をしたのか、私にはわからないのだ。夜伽の最中ですらね。私は私でない私が起こした顛末の結果をやがて受け取ることになる。ま、似たような『手』はいたるところにある。神はいたるところにおわすのだ。ここ辺境ではユルグを動かしていた。私の推測では、ルーがエシュを拾ったときもね。私が皇帝陛下のもとを離れたあとも『手』は何度も私を使った――が、不思議なことにここ一年はご無沙汰だ。きみたちが竜に呑まれたあとからだよ。奇妙な偶然じゃないか?」  アーロンはまばたきし、最初に思い浮かんだことをたずねた。 「――あなたが反帝国に加担して……その結果、黒鉄竜の巣へ帝国軍が誘い込まれ、エシュが〈異法〉を使ったのも、その憑依する手のせいだと?」 「何のせいだろうと私の行為の責任は私自身にある。エシュが鍵だと気づかなかったのも私の失敗だ。気づいていたら皇帝陛下に目をつけさせないよう、もっと気を配った」 「鍵?」  イヒカは顔をあげ、アーロンをみつめた。 「この世界を動かす鍵だ。私を思うままに動かす『手』に彼は抗っていた。きみへのおかしな態度についてももっと突っ込んでおけばよかったよ。それにしても世界竜はいったいきみたちに何をしたのか……あの卵をきみたちが蹴り割った時に、きみとエシュのあいだの長年の問題は解決したというわけか?」  アーロンは顔をしかめた。 「あなたには関係ないことです」 「そう突っぱねるな」 「ひとつ確認させてください。あなたが感じていたその『手』は、今はないと?」 「そのようだ。ユルグはもう神の声を聞いていないと私は思っている。私にも『手』が及んでいたから、何となく察するのだよ。神は消えたが、皇帝は竜石の力を手に入れた。彼はいま、神ではなく自らの意思で力を使っている――そんな気がするよ」  ふと意識の片隅を何かがかすり、アーロンは空を見上げた。木が落とす影がいつのまにか動いている。エスクーの方をみやると、竜はしずかに頭をもたげ、くるくると回る眼でアーロンをみつめた。 「哨戒竜が飛びたったようだ。行きましょう」 「お手柔らかに頼むよ」  今回はエスクーに乗る前にいつもと異なる手順が必要だった。拘束具をつけたイヒカがエスクーの背に登り、後方の鞍に乗りこむ。ひょろりと背の高い金髪の男はアーロンが膝を縛ろうとするとかすかにひたいに皺を寄せた。剣を背負ったアーロンも前方の鞍におさまる。  エスクーはばさりと翼を広げた。一瞬後には全力で森を滑走しはじめていた。走る竜にあおられて木の葉が波打つように揺れる。翼と鉤爪が小枝をへし折る音が響いたと思った時、アーロンは森の濃い緑を自分のはるか下にみていた。魚が水面から跳躍するようにエスクーは森から飛び出し、大きく翼を羽ばたかせ、上昇気流に乗る。  目的地は人の目にはまだ見えない。しかしアーロンはエスクーの知覚に自分の意識をかさねていた。目的とする地上から黒い点がひとつ、大きな弧を描くように空中に舞い上がる。エスクーは落ちついて飛翔をつづけている。アーロンはそのままエスクーの知覚に留まりつづけた。飛んでいる竜の意識がエスクーに向いたと感じたその瞬間に、自分自身の肉体から意識を遠くへ、帝国軍の竜に届くように投げ出した。  どうしてこんなことが可能になったのか、アーロン自身にもわからなかった。自分の足で走れるように、ただできるとわかるだけだ。アーロンは透明な薄膜のように帝国の竜の知覚にかぶさった。乗り手はまだ気づいていない。竜だけが気づいているが、アーロンが竜と視覚を同調するのは造作もなかった。  たちまち帝国の竜の途惑いが伝わってくる。自分に何が起きているのか、近づきつつある竜――エスクーが敵なのか味方なのか、わからないのだ。アーロンは竜の心をさぐり、理解する。この竜はまだ若く、固定した乗り手はいなかった。帝都から遠く離れた基地の哨戒竜には珍しいことではない。ハーネスを通して伝えられる命令に従うことしか知らず、砦の周囲に棲む野生竜のように、群れとの絆を持っているわけでもない。  アーロンは竜の目で自らの乗る竜――エスクーをみつめた。黄金色をした、堂々とした体躯の竜はゆったりと翼を広げ、まっすぐ基地を目指している。装備こそ貧弱だが逃げ隠れする様子もない。  いいぞ、エスクー。俺の竜。そのまま飛べ。  まばたきした途端、アーロンの視界はふたたびエスクーの背の上に戻った。距離が縮まり、アーロンの肉眼にも哨戒竜と乗り手の姿がみえる。乗り手が気づくと同時にアーロンは帝国の竜にふたたび意識の焦点をあわせた。今度は相手の知覚を借りはしなかった。確信をもって語りかけただけだ。  俺は基地へ行く使命を帯びている。俺と俺の竜を基地へ連れていけ。  俺は〈黄金〉のアーロンだ。  帝国の竜の首があがり、アーロンの眸と竜の眸がかちあった。 「……おまえは……何だ!」  エスクーが大きく広げた翼を傾け、乗り手をかすめそうなほど近くをすり抜けた。突然あらわれた――少なくともその乗り手にはそう思えたにちがいない――黄金の大きな竜にあわてた帝国軍兵士の、切れ切れの声が風に乗る。アーロンはわずかに首を曲げ、後方の鞍を確認した。イヒカはぐったりと頭を下げてぴくりともしない。示しあわせたとおりだ。アーロンは片手を高く上げ、すばやく手信号を送った。  避難求ム。捕虜アリ。  あがりかけた兵士の手がとまり、アーロンは剣に手をかけるのを思いとどまった。かわりにもう一度片手をあげ、別のサインをつづった。  我ハ黄金ノあーろん。  兵士の眸が信じられないように大きく見開き、口がパクパクと開いて、閉じた。その体が竜の突然の動きにバランスを崩す。 「アーロン? まさか――待て、どっちへ行こうと――そうじゃない、応答! 応答求む! 緊急事態!」  兵士は通信機へまくしたてたが、帝国の竜はすでに方向を変えていた。通信基地の方向へ、エスクーを先導するように滑空をはじめていたのだ。眼下の基地が瞬く間に大きくなる。地上から二頭の竜が慌ただしく飛び立ち、エスクーのすぐ近くまで上昇してくると、牽制するように翼を大きく羽ばたかせた。  アーロンは堂々とエスクーの鞍に座っていた。帝国軍兵士はそれぞれの竜の背で杖をかざしたが、竜はエスクーの視線をあびてたちまち戦意を喪失したようだ。アーロンは片手をあげ、もう一度手信号をくりかえした。  我ハ黄金ノあーろん。タダイマ帰還セリ。

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