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【第3部 翼の定位】21.金剛

 薄闇のなか、壁を背にして立っていた〈碧〉の隊員が、膝を折って音もなく地面にくずおれた。三歩離れて立つもうひとりの隊員が怪訝な表情をしたとたん、低い呻き声をあげて体を折り曲げる。  壁にうすくタキとシンの影が浮かびあがる。タキがすばやく倒れた男たちの口をテープでふさぐと、俺は彼らの制服をてばやく剥ぎとった。 「シュウ、着替えろ」 「あまり気持ちのいいものじゃないな」  解析官は顔をしかめながら自分の上着とズボンを脱ぎ、制服に着替えた。そのあいだにもタキとシンは〈碧〉の隊員を縛り上げ、首に装着した通信機を外す。竜舎の壁の凹みに影になるように押しこめると、タキは腕を軽く振った。俺の視界がかすかにゆがむ。壁の一部に同化したように縛られた男たちがみえなくなる。それだけでなくタキとシンの姿も壁の表面にゆらめく影になる。 「これもつけてろ」  俺はシュウに帝国軍の通信機と制帽を渡した。小柄な男は目をすがめてタキとシンがいるあたりをみつめ、小さく首をふる。 「辺境の〈法〉にはいまだに慣れないよ。いったい何をどうしたらああなるんだ」 「帝国の学校じゃ教えないからな」  剥ぎとったばかりの〈碧〉の制服には着ていた男の体温が残っていた。袖や裾がすこし短く、だぶついた胴回りをベルトで締めなければならないが、そこまで不自然でもないだろう。俺は帽子を深くかぶり、タキとシンがいるはずの場所に目をやる。壁に同化しているようにみえるのは、山地で代々伝えられるカモフラージュの〈法〉だ。  山地の日常で使う〈法〉は帝国の〈法〉と基本は同じである。しかし帝国は〈地図〉〈法〉を集約し、大規模な装置を動かして全体の環境をコントロールしようとする。反対に山地の〈法〉は個人のためにある。もともとは岩の中にひそむ繊細な鉱脈から鉱石を取り出すために発達した技術だ。それが帝国と対立するうちに、自分たちを守り、帝国に侵入するための技術を生み出した。当然のことながらタキとシンは山地の〈法〉のエキスパートだ。俺も城壁事件が起きた時はこの〈法〉を大いに活用した。 「行くぞ」  小声でつぶやいたとたんに〈碧〉の通信機から無機質な音声が流れ出す。返答を求めるものではなく、定時連絡の一斉放送だ。 『待って。こっちのチャネルをあわせる』  シュウがふところから平べったいパッドを取り出すと、タキとシンにも同じ放送が聞こえるように細工をはじめた。〈碧〉は町や都市部の治安維持を任務とする軍団だ。放送の内容に緊張感はなかった。城壁都市内の交通網を担う竜の衝突事故とか、住民同士のいさかいとか、当事者にとっては深刻な場合もあるだろうが、帝国を揺るがすような事件は起きていない。俺たちのような外部からの侵入者もいない。  最下層の飛翔台はすぐ近くだ。俺は夜闇のなかにたたずむ竜たちに意識をのばす。飛竜は俺の意識が触れてもぴくりともしなかった。どの竜も同じで、ぼんやりした反応に俺はむしろ驚く。この都市では飛竜たちは日常の足だ。はじめて城壁都市を訪れた学生のときも〈黒〉が常駐して変異体を訓練していた時も、俺は頻繁に彼らに接触したが、あのころも彼らはこんなに鈍かっただろうか。  俺はもう少し深く意識をのばし、飛竜たちの知覚を感じようとした。頭が固い枠にはめられたような感覚に襲われたのはその直後だ。遠くを見渡したり、近づく雨の嗅ぐこともできないほど制限された感覚――いくら標準種だからといって、帝国の竜はこんな風だったか?  俺はここからほど遠くない地中に隠れているツェットを思い浮かべた。あいつも帝国の基地にいたが、こんなに鈍った様子はなかった。単にこの飛竜たちが移動用の家畜だから? それとも……。 〈黒〉の竜は――ドルンが群れにした変異体はいま、どんな状態なのだろう。ドルンはもう群れを率いていない。  内心の不安を押し隠すように俺は堂々と背を伸ばし、いちばん端の飛翔台へつかつかと歩いた。空はもう暗く、プラットフォームは煌々と照らされている。俺はこっちへやってこようとする係員に手を振った。 「公用だ」 〈碧〉の制服は城壁都市の公共空間ではフリーパスになる。俺とシュウが手前の座席に座ると同時に、姿をくらませたままのタキとシュウが後部座席に乗ってきた。急に加わった重みに竜が反応したが、俺はその隙をついて枷にはめられたような竜の意識をゆるめにかかる。飛竜は今度こそ驚いたようだった。途惑う竜の意識に俺は安心しろとささやく。  俺は同族だ。迎えに来た。目を覚ませ。  帝都の防壁でもある城壁都市には、竜石作戦で俺が消えてしまったあとも〈黒〉が駐留している。帝国内部の反乱分子が息をひそめて静かになってしまってから、皇帝直属部隊の〈黒〉に出動命令が下ることは滅多になくなり、ドルン以外の変異体は城壁都市に留められている。これは帝都に潜入させたスパイが根絶やしにされるまえにタキたちが掴むことのできた数少ない情報のひとつだ。  飛竜が舞い上がるにつれ、城壁都市高層部のひらけた視界のなかに、変異体のためにつくられた訓練場がみえてきた。最上部に広がる立派な訓練施設や巨大な厩舎の上で〈黒〉の団旗がぱたぱたと揺れていた。俺が彼らを訓練していた頃とはずいぶんなちがいだ。広い訓練場に竜たちの姿は一頭もなかった。隣接する巨大な厩舎の窓からおちた光が訓練場に四角い枠を描いている。  奇妙な静けさがあたりを覆っていた。何かが変だ。静かすぎる。竜のいる場所はもっと騒がしいものだ。それに〈黒〉の変異体は帝国標準種よりずっとわがままで騒がしいやつらで、ドルンが群れを統率してからだって……。  胸の奥がざわついたが、俺は飛翔台から降りた飛竜にここにいろ、と語りかけた。飛竜は何が何だかわからない、といった様子だったが、ふいに眸をくるりと回して理解の色をにじませた。そうだ、と俺はたたみかける。  。  タキとシンは姿を隠したままだ。厩舎の方から人影が近づいてくる。俺は彼らにみえないように、指でタキに合図を出した。そのまま隠れていろ。 「パトロールの途中で不審者の通報があった。異常でも?」  俺は機先を制して話しかける。やって来た男は〈黒〉の隊員ではなく、厩舎員のつなぎを着ていた。 「異常? そんな話は特に聞いてません」 「そうか? では誤報かな。ひとまず〈黒〉の責任者と話そう。どこにいる?」 「さあ。この時間は厩舎にはいませんよ。士官室か……食堂かもしれない」厩舎員は退屈そうな表情でいった。 「そうか? 勝手に見させてもらう」  厩舎員は興味がなさそうにうなずいて歩き去った。ちらりと横をみるとシュウも怪訝な表情をしている。 「どうも……変じゃないか? 休暇中のような雰囲気だ」  休暇中。いわれてみればたしかにそうだ。たるんでいるというのではないが、緊張感がまったくない。 「たしかにな。竜も静かすぎるが――行くぞ」  タキが音もなく空間に姿をあらわした。俺は目だけで方向をしめし、シュウと並んで士官室へ向かう。新しい施設であっても、標準化されたモジュールにはパターンがある。厩舎の隣に機械室、装備室、そのむこうに解析官のラボユニット、ラボの奥に作戦室と士官室。隊員各自のユニットは通路を曲がった向こう側だ。ちらりと人影が横切る。シュウが士官室の前に立ち、ノックした。 「〈碧〉のハーマン」と制服のプレートにある名前を告げる。「不審者の通報があった。異常がないか確認したい」  ガチャッとドアが開いたとたん、シュウの脇腹をかすめるようにタキとシンが部屋にすべりこんだ。カードが散らばるテーブルに四人の男が座っている。ひとりが座ったまま怪訝な目つきでシュウをみあげた。 「不審者? こちらからは何も――」そういいかけて、口を半開きにした。 「シュウ?」 「フィル!」シュウの声色がぱっと明るくなる。 「僕がわかるか?」  フィルはガタッと椅子を揺らして立ち上がった。 「死んで……なかったのか。まさか反帝国の捕虜になって……?」  俺はシュウのうしろから士官室を見回し、馴染みの〈黒〉六人の顔を確かめる。ティッキー、フィル、ユージン、エルデン、ガース、アクセル。フィル以外はみな、イヒカが団長だったころから〈黒〉にいる者ばかり。  俺は一歩前に出ると制帽をとった。「よう」  そのとたん、空気が凍りついた。  フィルの膝のうしろで椅子が倒れ、他の五人もいっせいに立ち上がり、後ずさる。全員の顔から表情が消え、さっと一列に並んで敬礼した。 「団長。いつ城壁都市へ? その制服はどうしました。皇帝の意を受けた作戦でも?」  フィルが怯えたような口調でいった。思いがけない反応に俺は焦った。 「おい、いったいなんだ? 死んだはずの人間がいきなりあらわれて驚くのはわかる。たしかに俺は竜石作戦の最中に竜に呑まれたが、あれで死んだわけじゃ……」  俺は喋りながら一歩前に出たが〈黒〉は全員また一歩下がり、こんどは膝をついた。かつて皇帝の前で俺がやったように。 「まさか。〈黒〉の団長はずっと帝都にいる。帝都の御座の左側におられるはず」  しわがれた声でそういったのはティッキーだ。 「どういうことだ?」  シュウが混乱した目つきで全員をぐるりとみまわし、口走った。 「エシュは死んでいないとでも? 帝都にいる? でも〈黄金〉のアーロンと共に彼が竜にのまれたのを見ただろう。僕はあの時その通信をきいた。反帝国の急襲から逃げられず僕はそのまま捕虜になったが――」  ふいに空間がゆらめいて、タキとシンが姿をあらわした。ひざまずいた〈黒〉の隊員の反応は遅れ、タキはその隙に腕を振る。彼の法道具は手首にはめられた腕輪だ。〈黒〉の六人はいっせいに尻もちをつき、そのまま腹を押さえつけられたように動けなくなる。 「シュウは今、俺たちの一員だ」  床へ押し倒された姿勢のまま、アクセルとエルデンが同時に口をひらいた。 「おまえらは反帝国――?」 「待て、じゃあそのエシュはなんだ?」 「これも皇帝陛下に試されているのかも――」 「うかつなことをいうな!」  ティッキーがぴしりといった。俺の中では違和感だけがふくれあがる。何もかもがおかしい。 「俺はエシュだ」  俺は一歩前に出て、床にへたりこんだ〈黒〉の前に体をかがめた。 「俺は竜石作戦のとき世界竜に食われていちどその胎に落ちた。俺が嵐を知らせて、皆を撤退させたのは覚えているな? 竜の卵からもう一度生まれてきたといっても、もちろん信じられないだろう。今おまえたちを押さえつけているそこのふたりだって、俺とアーロンが目の前で卵を蹴破らなければ、信じなかったかもしれない。だがティッキー、イヒカがいなくなったあと、あんたは俺の副官だった。イヒカは今、どうしていると思う」  ティッキーは答えなかった。そのかわり眉をあげ、しげしげと俺をみつめる。 「は――髪が長い」おもむろにいった。「そうだ、髪だ。金髪が混じっている。そうか。忘れていた。エシュは――」 「ティッキー!」俺はがまんできなくなって男の両肩に手をかける。 「帝国ではいったい何が起きている。俺がいないあいだ――死んだと思われていたあいだに、皇帝は〈黒〉(おまえたち)に何をした?」  ティッキーの口がひらきかけたが、なぜか視線は俺の顔をそれて背後に移った。 「そろそろ礼拝の時間だ。もしおまえが『エシュ』だというなら……」 「礼拝?」  思ってもいない言葉に俺は目を瞬く。次の瞬間、俺の真上――士官室の空中に三次元投影像が浮かび上がった。スピーカーから重々しい音楽とともに無機質な声が流れ出した。 『これより夜の礼拝をおこなう。これより夜の礼拝をおこなう。皇帝陛下の軍団は御座の前でひざまずき、こうべを垂れよ』  俺は飛び上がるように立って杖を握った。シンがあっけにとられた表情でぽかんと宙をみつめる。タキの顔が嫌悪でゆがんだが、見下ろした〈黒〉の連中も放送を歓迎しているようにはみえない。空中に投影された映像は宮殿にある皇帝の御座で、あらわれたのはまぎれもなく皇帝陛下本人だ。  音楽だけが響くなか、御座の横にもうひとつの人影があらわれ、皇帝の足元にひざまずく。皇帝の手がのびてその頭を軽く撫でた。そいつはさらに頭を下げ、皇帝の片足を両手で捧げもつと、顔を伏せて唇をおしつける。 「エシュ?」  シュウがつぶやいた。俺は突っ立ったまま投影された(イメージ)を見つめていた。ひざまずいた男が顔をあげ、立ち上がった。すべるように歩いて皇帝陛下の御座の左側に立ち、こちらを見返す。  どこかで見た顔――なんてものじゃない。  俺の顔だ。 『俺』の髪は肩までの長さしかなかった。晩餐会の時しか身に着けた記憶のない〈黒〉の正装をまとっている。黒く硬い眸は石のようで、ちらちらと明滅する光がみえる。  青い光だった。竜石の光。 「あれは何だ? あれは――俺にそっくりだが―――俺じゃない……」 「無人地帯の竜の洞窟で俺たちがエシュを失い、竜石を持ち帰ったあと……皇帝が〈法〉の奇跡によって蘇らせた」  俺の足元でティッキーが静かにいった。 「が今の〈黒〉の団長だ。ありがたくもここには現れないがね。それにいまの〈黒〉はとても暇だ。あの団長が皇帝の左側で何もかも片付けてしまう」ティッキーの眸が俺を刺すようにみている。 「?」  スピーカーからは音楽とともに朗誦が流れてくる。皇帝を讃える言葉を投影像の『エシュ』が唱えているのだ。俺は杖を片手にタキに目配せを送った。彼の右腕が振られると同時に〈黒〉を押さえていた圧迫が解ける。ティッキーの眸から火花が散ったようにみえた。すばやく立ち上がった彼の前で俺は杖を斜めにかまえた。 「動くな。ティッキー、竜は――変異体はどうなった」  杖を喉に突きつけられたまま、ティッキーがふっと息をついた。 「竜を気にするか。おまえは本当のエシュかもしれない」 「いいから答えろ。竜たちはどうした。どうしてここはこんなに静かなんだ!」  ティッキーは他の〈黒〉の隊員を制するように片手をあげた。 「〈黒〉の竜なら眠っている。最後の戦闘が終わってからドルンが帝都へ飛んだ。それからずっと〈黒〉の変異体は停止している。しかしどうせいまの俺たちは用無しだ。帝都のがあの通り、宮殿につきっきりで夜の礼拝を取り仕切っているしな。ドルンだけがたまに……」ティッキーは押し出すようなため息と共に手のひらを上に向ける。「帝都から空を飛んでどこかへいく」  ドルン。棘の生えた灰色竜の姿が脳裏をよぎったとたん、俺の全身でカッと真っ赤な怒りが燃えた。自分の群れを眠らせて、おまえはいったい何をしている?  俺はティッキーから杖を引いた。 「俺を竜のところへ連れていけ。たしかに『エシュ』だと証明してやろう。あんたの知っているエシュはあんなところで皇帝を崇めたりしない」 「エシュ――」  このときもうティッキーは、俺を本物だと認めていたのかもしれなかった。 「何をするつもりだ?」 「変異体(あいつら)を起こすんだ。俺は帝都へドルンを取り返しに行く」  そのためにこれから城壁都市を奪う。そこまではいわなかった――この時点では。

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