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【第3部 翼の定位】22.予覚
「竜石作戦の最後で竜に襲われ、逃げ切ったものの墜落して、その後キャンプを急襲した反乱者の捕虜になっていた、とは……。それにしてもイヒカは本当に反帝国の一員だったのだな。彼を人質にとって脱出しようと考えたのはいつだね?」
基地司令のボーンは磨きこまれた木のデスクの上で両手を落ちつきなくこすりあわせていた。デスクの前に立つアーロンの顔から軍服へさっと視線を流す。アーロンに支給された帝国の軍服は、辺境の砦で与えられた服よりずっと上質だった。肉体にしなやかに寄り添う感覚が心地よい。
「座らないか。立ったままでは話しにくいだろう」
アーロンは短く礼をいって、基地司令が示した椅子に腰かけた。デスクのむこうには大きな窓があり、昼の日光をうけて芝生の緑が輝いている。
「しばらくのあいだは時間の経過がわかりませんでした。最初の数か月は記憶も断片的で、これが尋問に対する防壁になったようです。はっきり記憶を取り戻したのは半年前で、それから脱出のための作戦を練りました。イヒカは私を反帝国側に寝返らせようとしましたから、逆に利用することにしました。といっても、反乱者の根城についての情報はあまり入手できず、せいぜい私の竜を取り戻せたくらいですが」
「いや、貴殿が生きてここにいるのがもっとも大きな成果だろう。それに貴殿の竜も、乗り手に似て優秀なわけだ。そうか……」
基地司令はまた両手をこすりあわせた。
「帝都にはもう連絡をすませた。迎えの使者を送るそうだ。貴殿の『蘇り』の詳細はここではなく、帝都で訊かれることになる。ヴォルフ殿やご母堂に知らせが行ったかまでは聞いていない。すまないな」
「いえ、とんでもありません」アーロンは穏やかに、だが力強くいった。
「司令がすぐに私を認識してくださらなければ何もはじまりませんでしたし、辺境の間諜だと疑われることも覚悟していました。司令のすばやいご判断に心から感謝しています」
「いやいや。貴殿が早く帝都に戻れれば、ヴォルフ殿も皇帝陛下もお喜びになるだろう」
ボーンはアーロンの父ヴォルフより一歳年長である。士官学校も同じだったというが、ヴォルフとちがい栄達コースを歩んではいない。だからこそ退官近くになってこんな辺境の基地司令に甘んじているのだ。他の軍団より大所帯の〈紅〉にはそんな将校が多い。
ボーンの顎はかすかに緩んでいた。辺境の反乱者がぴくりともしなくなって、最近の帝国には戦果を得る機会がなくなっている。そんな折に死んだと思われていた英雄がこの基地へ降り立った。となると、帝都の高官たちに自分の名前を思い出してもらうよい機会だ。
アーロンはそんなボーンの思考を予測していたし、何年も前に一度だけボーンと会ったことも覚えていた。といってもアーロンがまだ〈黄金〉に所属してまもない頃、地方の大規模作戦に加わった折にすれ違った程度だが、アーロンがそんな些細な出来事を記憶していたと知ってボーンが気をよくしたのは確かだった。
「それにしても、竜石作戦から一年も経ったと思うと……」
アーロンは声色にかすかな悔しさをにじませる。
「今の自分は世界に取り残されたも同然です。帝国の状況はいったいどうなっているのしょう」
「心配はいらないさ。現在の帝国はかつてない平穏のなかにある。これも竜石作戦と皇帝陛下のお力のおかげだが、件の作戦の成功は貴殿なしにはありえなかった。しかも貴殿がイヒカを捕縛したことで、辺境に隠れた最後の反乱者の息の根もついに止まるだろう。使者の手配にすこし日数がかかるらしい。それまでゆっくり休みたまえ。帝都に戻ってからは、きっとてんやわんやだぞ」
ボーンは太り気味の体をそらすようにしてデスクの引き出しをあけた。鈍く光る螺鈿細工のケースを慎重な手つきであけ、煙管を取り出す。
「貴殿の生還を祝って一服分け合いたいのだが、どうだね?」
アーロンは薬物の甘ったるい芳香を嗅ぎとった。気分をほぐす効果があるために歓楽街やパーティでよく出されるものだ。酒と同様に違法ではないが、軍規が許しているはずがない――たとえ基地司令が勧めたものであっても。
いったいどういうことだ。内心の驚きをアーロンは隠し、如才ない微笑みを浮かべるに留めた。
「お気持ちは嬉しいのですが、いまの私には刺激が強すぎるかと」
「そうかね?」
基地司令は煙管に丁寧に葉を詰めている。アーロンの反応を気にもとめていないようだ。
「ボーン殿、基地の中を見せていただいてもいいでしょうか。イヒカの様子も確認したい」
「好きにしたまえ」
司令は煙管を片手に持ったままもう片手で反対側の引き出しをあけ、アーロンの方へ通行証をすべらせた。
たった一年のあいだに、ずいぶんだらしなくなったものだ。
ひさしぶりの帝国軍基地はアーロンにとって悪い意味で驚きの連続だった。本来なら帝国軍の拠点は、たとえ辺鄙な田舎にあったとしても、常に情報や人々、そして竜が行きかう活発で生き生きとした場所だったはずだ。
この基地も以前はそうだった。ところが今はどうだ。基地司令をはじめとした将官も兵士も、厩舎員にいたるまで、みなアーロンの感覚には信じられないほどぼんやりしている。軍規は守られておらず、規律は弛んでいた。非番でもないのに昼間からカードに興じている兵士を上官は咎めもしない。彼自身も基地司令のようにときどき息抜きをしているからである。
しかしこんな状態だというのに、基地の軍人たちには奇妙なくらい萎縮した、何かに怯えるような雰囲気もあった。
基地司令のお墨付きを得たアーロンはどこへ行っても誰何されることもなく、希望はすぐに叶えられた。帝都の軍本部の動向を知りたいといえば書類の山があらわれ、イヒカへの面会を求めると即座に拘置所に案内された。見張りの若い兵士に出るように告げると、疑問を抱いた様子もなくその場を離れてしまう。アーロンは扉が閉まったとたん顔をしかめた。
「いったいどうなっているんだ」
「おかしなことでも起きているかね?」
イヒカはあいかわらず飄々とした口ぶりである。
「ここはどうです?」
アーロンの問いに金髪の男は肩をすくめた。
「檻にしては悪くない。快適そのものさ。きみは何か不都合でも?」
「俺がいない一年のあいだに帝国軍はずいぶん変わったようです」
アーロンは扉の方をみやった。
「一年間行方不明だった軍人が捕虜と一対一になりたいといったのに、確認もしない。相手が上官であってもプロトコル違反だ」
「この基地の外はわからんさ。私には願ったり叶ったりだがな。帝都でも丁寧に扱われるのを願うよ」
「あなたは俺が護送します。じきに使者が到着する」
「使者か」イヒカはあくびをした。「捕虜の扱いに文句はないが、暇すぎる。さて、誰が来るだろうね」
シュウが欲しがっていた暗号化コードを手に入れるには多少手間がかかった――といっても、さしたる困難はなかった。アーロンは基地司令のお墨付きをかざして小さなブースに分かれた通信基地の中枢を見学に行き、任務に携わる兵士たちのあいだを無遠慮に歩き回った。あくまでも堂々とした態度で、気になることがあれば上官風を吹かせて質問をする。
最初は緊張していた兵士たちも、次第にアーロンの存在に慣れたようだった。ひとりが席を外した隙にアーロンはコンソールを操作し、コードを手に入れた。
かつて潜入していたという辺境のスパイ「アラウン」の顔はどこにもなかった。兵士たちの話に耳を傾けるうちに、アーロンは基地の人員がこの一年で総入れ替えになったと知った。
前触れなく帝都から訪れた査察官に連れ出され、そのまま軍籍に戻らなかった者が何人もいるという。彼らは違反で処分されたのではなく、宮殿に引き抜かれたという噂もあった。査察官はいまも抜き打ちで現れるらしい。機嫌をそこねると何が起きるかわからないため、彼らはひどく恐れられていた。
またもアーロンは奇妙だと感じた。帝国は〈法〉と〈地図〉で支配されている。本来は人の恣意など入る余地がないはずだ。
七日後、使者が到着したときアーロンは基地の訓練場でエスクーを運動させていた。厩舎にいる竜たちのぼんやりした様子にエスクーは不満そうだったが、アーロンはあえて他の竜に意識をのばさないようにしていた。ここはあくまでも中継地点なのだ。余計な騒動を引き起こしたくなかった。
訓練場の真上を旋回、地上へ急降下し、また上昇。文字通り羽根をのばせて満足した様子のエスクーを着陸させると、アーロンは竜の背から地上へ飛び降りる。視野の隅で純白がひらめいた。
「アーロン」
白い影が走り寄ってくる。その様子だけで相手が誰なのかわかった。
「セラン」
「アーロン、生きていた――」
美貌の青年は腕を大きく広げてアーロンにすがりつく。純白の袖が頬を撫で、爽やかな香りが首筋をくすぐった。
「なんということだ。知らせを聞いたときはまさかと思いました。ああ、あなたが生きていたとは――」
ぽろぽろとセランの頬に涙がこぼれた。アーロンは思わず指をのばしてぬぐった。セランはアーロンの手を摑まえると、花がひらくような微笑みをうかべた。
「あなたが生還されてどんなに嬉しいか……言葉にもなりません」
「ありがとう。すまなかった」
どちらも本心だった。セランは首をふり、姿勢を正した。
「まさか。あなたは陛下の任務を完遂されただけです」
「ああ……陛下もそうお考えになるといいが」
明るい屋外から建物の中に入っても、セランは輝くように美しかった。すれちがう兵士たちがちらちらと目をむけていく。アーロンもかつてないほどその美貌に感銘をうけていた。ほんとうに美しい男だ。
しかし今は不思議なことに、以前は気づかなかったものもみえるような気がする。アーロンはセランの涙と微笑みの下にしたたかな気配、強い芯のようなものを感じとっていた。セランもまたこの一年で変わったのだろうか。それとも自分がこれまで気づかなかっただけなのか?
「基地司令からも連絡したはずだが、帝都に戻る際はイヒカをエスクーに乗せて護送する」
セランはアーロンの一挙手一投足を食い入るようにみつめている。眸の奥には正体のわからない熱望がゆらめき、それがアーロンの警戒心を呼び覚ました。
「アーロン、この件はあなたの手を煩わせなくても大丈夫でしょう。捕虜の護送は基地司令に任せてもいい。重要なのは帝都へあなたが帰還することです」
「いや。それではだめだ」
アーロンは首をふる。ここは譲るわけにはいかない。
「俺は一度イヒカを逃した。今回はみずから連れ帰り、皇帝陛下の面前でこの失点を取り返さなければならない」
「陛下に……」セランは小さく息を吐いた。「そういうことならば」
「陛下はいかがされている?」
また小さなため息だ。
「力に溢れていらっしゃいます。隣にいつも青珠の方がおられますし」
「青珠の――」アーロンは眉をひそめた。〈青珠〉は以前エシュが賜った地位である。
「陛下は新しく青珠を迎えられたのか」
「新しく? いいえ、まさか」
「しかし……」アーロンの途惑いはますます深くなった。
「エシュは竜石作戦のとき、俺と同時に竜に襲われた。あれで助かったとはとても……信じられない」
もちろんこう告げなくてはならなかった。予定通りなら、エシュは今ごろ城壁都市に侵入しているはずである。
「ええ、その報告はもちろん、あなたの死の――誤報と共に帝都へ届きました。しかし皇帝陛下は竜石で奇跡を成し遂げた」
「奇跡?」
セランの微笑みは不気味なほど美しかった。
「アーロン、陛下はエシュを竜石の〈法〉で蘇らせたのです。帝都に戻れば、陛下が行った奇跡をその目でたしかめられます。エシュはずっと陛下の隣にいます。あの灰色竜もね」
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