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【第3部 翼の定位】26.紅蓮
「何が起きたんだ?」
「真っ暗だぞ、動かない……」
「いったいどうした?」
騒ぎ立てる人々のあいだをアーロンはすりぬける。何かが壊れたような音が響き、叫び声があがる。それを合図にしたようにパニックがはじまる。
「落ちついてください、ただいま事態を確認中です……落ちついて、その場から動かないでください。危険です」
大声で叫んでいるのは宮殿の職員だろうか。言葉の内容はもっともだが人々は聞いていない。庭園の出口に向かって走り出した群衆に冷静な声はかき消される。宮殿に〈法〉道具を持ちこめる者は限られているから、小さな明かりすら灯せないことに皆がストレスを感じているのだ。アーロンは皇帝のいたあずまやに足を向けた。
「アーロン、どこへ行く。何が起きる」
背後でルーが慌てた声をあげた。アーロンはふりむいた。
「俺は竜を呼ぶ。あなたは隠れていてください」
「きみと行くんじゃなかったのか」
「城壁都市から本物のエシュと〈黒〉が到着する。彼らは行政庁を押さえます」
ルーはまばたきもせずにアーロンをみつめ、ひとこと「わかった」といった。アーロンはあずまやの周囲のとばりをめくったが、誰もいない。皇帝はいちはやく宮殿の奥へ戻ったにちがいない。他の人間とちがい、皇帝には竜石で拡張された〈法〉がある。しかし今のアーロンには皇帝ともちがう、竜の魂 に与えられた力がある。
エスクー、飛べ。おまえの群れを集めろ。俺の元へ来い。
このパーティの前にアーロンは軍本部の厩舎に立ちよってセキュリティを解除していた。掛け金をおろしただけの状態にしていたのである。軍規が緩んだいまの帝国軍でなければおよそ不可能なことだ。
急にエスクーの感覚とアーロンの視界が重なって、全身を空中にほうりだされたように足元が揺れた。エスクーは暗い厩舎の中でかっと目をあけ、起床ラッパのように高らかに鳴くと、自分の仕切りを飛び出して他の竜が眠る区画の上を羽ばたいた。厩舎は次第に大騒ぎになった――竜がみな目覚めたのだ。ついに厩舎の扉へ到達したエスクーは鉤爪でかけがねをひっかき、はずして、体当たりする。
アーロンはエスクーの聴覚を通して、目覚めた竜たちが合唱のように叫ぶのをききとった。よく訓練された帝国の竜の群れは指揮をもとめている。
来い。目的は宮殿だ。
アーロンの意思はエスクーを通じて竜たちに拡散する。くらりと視界がまわったと思うとアーロンは自分の体に戻っていた。エスクーがこちらへ近づくのを感じた。軍本部の厩舎から宮殿まではエスクーにとってはひとっとびだ。庭園の上空に姿をあらわした黄金の竜が自分の前に下降する。エスクーに続いて帝国軍の竜がつぎつぎに空中に飛び出し、宮殿を取り囲んでいる。アーロンの前でエスクーはひとふりした。闇におおわれた地面に何かが落ちた。アーロンは足をずらし、鞘におさまった長剣をたしかめた。エスクーの寝床に隠していたのだった。
「よく覚えていたな」
そういって手をさしのべたとき、竜が鳴いた。
(アーロン)
たしかにそう聞こえたのだ。アーロンはぎょっとして竜をみつめ、眸の中にいつもの竜とはちがう存在を感じとった。
「エシュ、そこにいるな?」
竜の眸に理解がひらめいたのは一瞬にすぎなかった。エスクーが唸り、背をかがめた。鞍はなく、首にハーネスが半端にまきついているが、これで十分だ。アーロンはハーネスをひっつかんで竜の腹から背中によじのぼる。エスクーの鱗に指をかけ、首に腕をまわしたとたんアーロンは空中に飛び出していた。
まるで竜と人の感覚が融合したかのようだ。いま翼を広げているのはアーロンであり、エスクーでもあった。宮殿の真上でツェットが羽ばたいている。アーロンはその横めがけて飛ぼうとしたが、次の瞬間固い空気がゆらめき、翼を押しとどめた。
「ドルン!」
ツェットの上でエシュが叫んだ。一瞬のうちに灰色竜が空中に出現していたのだ。アーロンが皇帝の元で目撃したミニチュアではない。エスクーよりもはるかに巨大な、生きて動いている竜。醜悪で重そうな棘に覆われているにもかかわらず、軽々と宙に浮かんでいる。
「ドルン! 起きろ!」
エシュから〈法〉のきらめきがほとばしった。ドルンの口が大きくひらき、青い炎が閃く。アーロンの反応は本能的なものだった。片手でエスクーのハーネスをつかみ、片手で背中の剣に手をのばす。俺はなぜこの剣の使い方がわかるのだろう。心の片隅を横切った問いは泡のように消えた。エシュめがけてドルンが青い火を放ったからだ。
グワァアアアアアアアアア!
エスクーはアーロンの意思と一体だった。雄たけびをあげながらドルンの側面へ突っこむのと同時に、アーロンは剣を握った片腕をドルンに向ける。剣からほとばしった〈法〉の光に引き寄せられるように、ドルンの火が分散する。青い光の筋は剣の刃を直撃し、エスクーごとアーロンを薙ぎ払おうとした。剣から腕、肩、そして全身へ、すさまじい力の衝撃にアーロンもエスクーも耐える。エスクーは翼の力で、アーロンは自分の内部にある竜の〈法〉によって。
いつまでこれは続くのか。いつまで耐えればいいのか。
そう思ったとき、ふいにアーロンの顔を風が撫でた。うつむいてしまっていた顔をあげたとき、青い光に照らされてエシュの横顔がすぐ目の前にみえたような気がした。そのとたんアーロンの腹の底でカッとなにかが燃えた。アーロンは光をうけとめて途方もない重さになった剣を斜めに振った。
この剣は、どんなものでも斬れる。
それは楽観でなく確信だった。同時に腕が軽くなった。剣の刃のうえで青い光は散乱し、空中へ溶けていく。エスクーがすかさず羽ばたいてツェットとドルンのあいだに割りこみ、アーロンはもう一度剣をふって、エシュを襲っていたドルンの青い火を切り裂いた。火をかすめたエスクーが震え、剣が指先を離れるのを感じながら、アーロンは叫んだ。
「いまだ! エシュ!」
エシュは宙に羽ばたくツェットの背中にまっすぐ立っていた。片手に持った古い杖をドルンの方へさしのべている。挑戦的な微笑みがその頬に浮かび、顔をかこむように垂れた髪のなかで金色の筋がきらめいた。
「思い出せ、ドルン。おまえは俺の竜だ」
アーロンの目には何もみえなかったが、エスクーの――竜の感覚はちがった。エシュとドルンのあいだを波のような、調和する音楽の流れのような何かがつなぎ、竜と人を包んでひとつにする。きっとエスクーの知覚が重なっていたのだろう、アーロンは金色の霞が闇の中をただようのをみた。
エシュの肌はぼうっと金色に光っている。微笑みながら伸ばした腕をふると、金色の霞は太いロープのようにしなり、丸いボールのかたちに編まれてドルンの方へ飛んでいく。棘だらけの竜の首が金色のボールを追ってぐるりとまわった。遊び道具のように頭の上でそれを弾ませる。
「ははは! 戻ったな、ドルン!」
エシュは快活な笑い声をあげ、腕をひとふりして金のボールを高く遠くへ飛ばした。
「あとで一緒に遊んでやる。ツェット!」
エシュはツェットのハーネスをひき、辛抱強く乗り手に耐えていた竜は宮殿の方へ降りていく。エスクーはアーロンが命令を出す前にツェットに続いた。竜が鉤爪をおろすと同時にアーロンは地上へ飛び降りていた。
「エシュ!」
「ドルンが帰った」
目の前でエシュが笑っている。アーロンが腕をのばして抱き寄せても、肩口に顔を押しあててまだ小さく笑いつづけている。アーロンはエシュの背中に腕を回し、もう一度強く抱きしめた。発作のようなエシュの笑いがやっとおさまった。アーロンは腕の力をゆるめ、エシュの顎をもちあげて唇を重ねた。ふたりとも埃と汗と竜の匂いにまみれていた。
「アーロン」
「よくやった」
「おまえもな」
唇を離し、おたがいの背中を叩いたとき、アーロンは剣のことを思い出した。あたりをみまわし、地面の上でぼうっと輝く切っ先をみつける。エスクーがふうっと唸った。鞘がアーロンの前に転がり落ちてくる。剣には青い光がまとわりついていた。鞘におさめて背中に負う。ふりむくとエシュはいささか不満そうな目つきでアーロンをみつめていた。
「アーロン、その剣――」エシュはなにかいいかけて首をふった。
「まあいい。終わりよければすべてよしだ」
「俺には使い方がわかる」
「そうらしいな」
頭上をみあげると、三頭の竜――エスクーとツェットとドルンは宮殿の上で三角形を描きながら飛翔している。
「外はあいつらに任せればいい。行政庁は〈黒〉が押さえた」
エシュがいい、アーロンはうなずいた。
「皇帝はきっと御座にいる。あそこが力の根源だ」
宮殿の中は薄暗く、非常用の小さな明かりがぼんやり照らしているだけだった。人影もみあたらない。人々は外へ避難したか、閉ざされた場所に隠れているのにちがいない。上空は竜が囲んでおり、行政庁は〈黒〉が押さえ、帝都のエネルギーレベルは落ちたままだ。
エシュは宮殿の中を迷いなく進んだが、御座の間へ通じる広い廊下にさしかかったとき、突然足をとめた。
「アーロン、知っているか――この先に〈地図〉の宝物庫が」
そのとたんエシュの姿がかき消え、アーロンは唖然として目を瞬いた。あわてて首をふったとき、エシュが狭い通路を歩いていくのが一瞬だけ視界の端にうつり、また見えなくなる。
はっとしてアーロンはゆっくり、ごくゆっくり首を回した。
何もないと信じていた壁の中に黒い四角が切り抜かれている。ほんのわずかでも角度を変えるとみえなくなるのは、目の錯覚を利用した隠し通路だからだ。
宮殿のなかにこんなものがあるという噂できいていた。しかし何度も歩いているこの廊下に仕掛けられているとは思いもしなかった。いったいエシュはいつこれに気づいたのか。青珠として皇帝陛下に召されていたときにちがいないが――いささか呆れながらアーロンはあとを追おうとした。
「エシュ、待て――」
そのときだ。背後から別の声がきこえた。
「アーロン!」
ぎょっとしてふりむく。うすぐらい照明のしたで白皙が浮かび上がった。
「セラン」
「アーロン、行政庁が〈黒〉に占拠されました」セランは早口で喋った。「あれはいったい――あのエシュは何なのです? これはあなたの計画ですか? あなたは――あなたは何をしに帝都へ戻ったんです?」
混乱しているような、憤っているような、行き場もなく形のない感情がむき出しになったような声だ。使者の服はわずかな光をとらえたかのように暗がりに白く浮かび上がっている。
「あれは本物のエシュだ」アーロンは静かに答えた。
「俺が竜に呑まれた時、エシュも共にいたんだ」
「……そしてあなたとエシュは、帝都に来た……」
セランの声が低くなる。激高した響きがたちまち消えたが、ささやくような口調はどこか不気味なものを感じさせた。
「帝都を落とすために」
アーロンは肯定も否定もしなかった。
「セラン、俺は行かなければならない」
「皇帝陛下は御座におつきです」セランは腕をのばし、袖が白く光った。
「帝都をこんなありさまにして、このあとどうする気です? あなたが皇帝の座につくとでも? それならいい――その方がいい」
「セラン?」
「あの人のあとを追うくらいなら、あなたは皇帝陛下を倒してその御座に座ればいい。僕はあなたが帝国の簒奪者でもかまわない。いや、その方が僕の望みにずっとかなう」
「セラン。おまえは――」
その先の言葉に迷ったそのときだ。背後から伸びた腕がアーロンの首にまきつき、しめあげようとした。喉が引き絞られる苦痛の中でアーロンは肘をうしろに突き出した。わずかにひるんだ感覚をとらえて巻きついた腕をふりほどき、相手を背負うようにして投げる。襲撃者はくるりと回転して衝撃を回避したが、アーロンはすかさず距離をつめた。自動的に背中の剣に伸び、相手を正面にとらえて鞘を抜く。腕をふりあげたそのとき、襲ってきた者の顔がみえた。
――エシュ?
一瞬の隙をつくように〈法〉の火花がきらめいた。剣を持った手がアーロンの意思を超えて反応し、跳ね返す。エシュにそっくりの相手――髪が多少短いことをのぞけばエシュ本人にも見まがう相手――はエシュそっくりに唇をあげてにやりと笑った。好敵手をみつけたときによく浮かべた表情だ。士官学校のころからアーロンはこの微笑みを何度も見た。
そう思ったとたん腹の底で憤怒が紅く燃えた。勝手に『エシュ』のようなものを作った皇帝に、それを可能にした竜石に、そしてその原因でもある自分に。
「皇帝もあなたも、ほんとうに『エシュ』がお気に入りだ」
背後でセランがいったが、言葉はアーロンの耳を素通りした。アーロンは剣を握りなおし、偽物と間合いをつめる。士官学校で、軍大学で、彼とはさまざまな|試合《ゲーム》をした――組み手から戦略シミュレーションまで、エシュの戦い方はよく知っている。
おまえはちがう。
迷いなく足を踏み出し、距離をつめる。器用に避ける肉体を追ってアーロンの剣は疲れを知らぬように動いた。エシュの顔をした相手は困惑したように眉をひそめた。
みろ、おまえの動きはすこしもエシュに似ていない。
怒りと共にアーロンは剣を振り下ろし、エシュに似て非なるものを斬った。
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