95 / 111

【第3部 翼の定位】27.至誠

 宮殿の隠し通路は山地の〈法〉によく似ためくらましに覆われている。  俺がこの通路をみつけたのはほんの偶然だった。皇帝陛下の青珠として「お勤め」に呼ばれ、いやいや宮殿歩いていた時に気づいたのだ。〈法〉能力が相当高い者であっても知らなければ気づかないくらい、巧妙に偽装されていた。俺が山地の〈法〉を知らなければやはり騙されていただろう。  御座の間に通じる廊下は人通りの多い場所でもある。一度だけ、周囲に誰もいないときを見計らって俺は通路へ入ることができた。しかしすぐ近くで話し合っている声が聞こえたから、その時は左右に並んだ扉のひとつをあけるだけで満足しなければならなかった。  扉の向こうには〈地図〉がずらりと並んだ棚があった。  何の〈地図〉かをたしかめる余裕はなかった――お召しの時間が迫っていたからだ。しかし俺はあのとき確信した。この通路に通じる部屋は古い〈地図〉の収蔵庫(アーカイブ)――帝国の宝物庫にちがいない。  歴代の帝国皇帝は辺境との攻防のあいだに多くの〈地図〉を収集してきた。それらは必ずしも実用に使われるとは限らない。帝国では実用に使われる〈地図〉のほとんどは行政庁と軍に所属する〈法〉の使い手にゆだねられている。いっぽう辺境では事情がちがい、人から人へ相続財産のように渡される。俺が父から譲り受けた指輪の中にも〈地図〉がおさめられていた。  ――そういえばあの指輪を俺はアニマ・ドラコーに呑まれてなくしてしまったが、格納された〈地図〉はどうなったのか。ひょっとしたらアーロンの剣と同様に山地のどこかに転がっているのかもしれない。  帝国でも辺境でも、実用に使いつづけられる〈地図〉がある一方で、今は使い道がなくなった〈地図〉がある。たとえば帝国で標準化された竜の原種の〈地図〉は、シュウのような解析官たちの研究対象になることもあっても、ふだん使われることはない。それだけでなく、何の役にたつのかわからない〈地図〉もある。  これらは帝国のどこかに保管されている。なにしろ〈地図〉は壊すことができない。そして〈地図〉をより多く持つ者がこの世界を支配する。 〈黒〉は行政庁を押さえたから、いま帝都を機能させている主要な〈地図〉は確保しただろう。軍本部の〈地図〉は竜が俺とアーロンに味方している以上、気にしなくていい。そうなると残るは帝国皇帝が秘匿する〈地図〉だ。  だから俺はひとけのない宮殿で隠し通路へ足を進めた。アーロンもついてきたとばかり思いこんでいた。俺はうかつにも、あいつが山地の〈法〉になじみがないことをすっかり忘れていたのだ。  明かりのおちた通路はまっくらだったが、左右と奥の扉はすべて開かれ、その向こうでちらちらと白い光がまたたいている。俺の足は自然と早くなった。 「アーロン、みろ。これは全部――」  そういいながらふりむいて、俺はその場に凍りついた。 「全部、なんだって?」  がそういった。  俺は唾を飲みこんだ。目の前にいるのはシュウが模造生物(ホムンクルス)と呼んだ俺の偽物だ。皇帝が竜石の力を使って作ったにちがいない、俺のそっくりさん。城壁都市の立体映像でみたとおり、本当に洒落にならないくらいだ。  いや。俺は思わず手をあげ、たしかめるように自分の前髪をかきあげた。偽物の髪は肩のところでぱっつりと切りそろえられていた。俺はこんな風に髪を流しているのは好きじゃない。 「どけ」俺はいった。「俺の邪魔をするな」 「おまえこそ、そこをどけ」偽物がいった。 「何のためにここへ来た。その〈地図〉は皇帝陛下のものだ」  偽物は俺と同じ声で、同じ口調で平然といった。鏡に映った像が勝手に喋り出したようで、気持ちが悪かった。こんなもの、さっさと消してしまいたい。俺はそっと杖をさぐる。 「悪いが俺はもう帝国の一員じゃない。俺がいないあいだ、おまえが勝手に俺のふりをしていたようだが、それも終わりだ」 「馬鹿なことをいうな」偽物が鼻で笑った。 「エシュはだ。消えるのはおまえだろう」  俺が杖をあげた瞬間、向こうからも〈法〉の衝撃がほとばしった。俺は横に体をひねってかわし、とんぼ返りしてもう一度杖を振る。偽物はまともに俺の攻撃をくらい、顔から床に崩れ落ちたが、同時にどこからかパン、と鈍い音が響いた。即座に俺はサイレンサーをつけた銃声だと悟った。まちがいない、俺のライフルの音じゃないか。俺の偽物は、今度はライフルを持ち出したのか。  俺は背後の小部屋に飛びこみ、しゃがんで扉の影から外をうかがった。弾丸が飛び出す一瞬のわずかな輝きをとらえて杖を振る。俺の攻撃と向こうの攻撃が交差して、壁からばらばらと何かが零れ落ちた。靴のすぐそばに転がった立方体を俺はつかむ。透明な媒体(メディウム)の中心にゆらゆらと〈精髄(エッセンス)〉が漂う。俺は似たような〈地図〉をこれまでいくつもみてきたし、自分の手で生成してきた。これは竜の〈地図〉だ。  パンッとまた銃声が響く。俺はそっと立ち上がり、小部屋を駆け出して通路を渡る。その途中でさっき倒した偽物を踏みつけそうになるが、またも銃声が聞こえて敵の方角がはっきりする。杖をかざして一撃をはなつ。〈法〉の光に照らされたのはまたもの顔だ。はぁ?  皇帝陛下、あんたはいったいを何人作ったんだ。  頭にきた俺は杖で立て続けに衝撃を発しながら二体目の偽物に向かって走り出す。相手が撃つのをためらった隙に距離を縮めて飛びかかる。偽物の俺はライフルの柄で俺を殴ろうとし、俺は逆にライフルを奪い取ろうと相手に馬乗りになる。偽物の俺は格闘を楽しんでいるかのようにニヤニヤし、俺は気分が悪くなる。そんな俺を見透かしたように「おい、無駄だぜ」と偽物がいう。 「ここの〈地図〉は〈黒〉の団長に扱えるような代物じゃない。帝国への忠誠はどうした。軍人の誇りは?」 「皮肉かよ」  俺は苛立ちながら吐き捨てた。こんな偽物に言葉を返す必要はない、ただぶちのめせばいいだけだ。理性はそう忠告したのに俺の口は止まらない。 「軍人になったのはルーへの義理立てだ。忠誠も誇りも知ったことか」 「そうだな。本心はいつもそうだ」  偽物はニヤニヤ笑いを止めなかった。 「〈黒〉の副官だ団長だと、偉そうにしてみたところで、本当は流されていただけだ。今の職務をこなしていればいい。自分の欲望を満たせればいい。皇帝陛下はお見通しだ」 「うるさい――」  俺はライフルを奪い取り、偽物の顎を殴りつけた。 「俺は俺自身に忠実だとも!」  そのとたん皮膚の下から青い光が放たれて、俺がのしかかっていた相手はのっぺらぼうの、細長い砂袋のような物体へ変化した。ちっと舌打ちしながら俺はライフルを片手に起き上がる。そのとたん背後に気配を感じた。ライフルを床におとし、伸びてきた腕をつかまえてねじりあげる。相手は器用に体を丸め、足で俺の背中を蹴った。俺は床に転がり、息が止まりそうな衝撃に耐えて顔をあげる。  予想通りだった。またがいる。 「皇帝陛下……いい加減にしろよ」  俺はあきれはてたが、背中の痛みはそれほどでもなかった。蹴りで反撃するのは俺の得意技なのだが、この偽物の威力がそれほど強くなかったのか。それともが偽物よりも強いということか。  偽物が動き、俺も同時に動いた。ライフルを拾って殴りかかる。偽物は俺よりもほんのわずか遅く、俺には次に相手がどう動くかすべてわかった。なるほど、偽物はたしかに俺の複製(コピー)だ。でも所詮は、皇帝が知っているすぎない。俺は足をひっかけて床へ転ばせ、偽物の両肩を持ち上げて頭を床に打ちつける。またパッと青い光が放たれ、偽物の顔からたちまち凹凸が消えて、のっぺらぼうの棒人形になった。  こいつが模造生物(ホムンクルス)の原型なのだろうか。なんとも不気味だ。  俺は用心深くあたりをみまわしたが、もう襲ってくるものはいなかった。俺の偽物もこれでおしまいか。予想外の戦闘が案外こたえている。俺は肩で息をしながら通路の両側の小部屋を回った。帝国が収集した〈地図〉のありかがわかったのはいいが、余計な手間をかけてしまった。アーロンは大丈夫だろうか。  あわてて通路を逆戻りする。元の廊下に出たとたん戦闘の息づかいがきこえた。薄暗い明かりに照らされた廊下でアーロンが戦っている。相手はまたも俺そっくりの偽物だが、アーロンは容赦なく斬りかかった。振り下ろされた剣が偽物の肩に食い込む。アーロンはためらいなく斜めに切り下ろした。青い光がまたたいた。 「アーロン」  ふりむいたアーロンの表情は硬くこわばっている。 「エシュ――」 「俺は本物だ。おまえとアニマ・ドラコーの胎にいた」  アーロンの口元がかすかにゆるんだ。すばやく剣を鞘にしまう。そのとたん金色の光が散ったようにみえて、俺は目を瞬いた。この剣はいったい何なのだろう。なぜかいつも落ちつかない気持ちにさせられるのだ。 「宝物庫には俺の偽物が三人いたぞ」俺はわざとらしいほど明るい声でいう。 「ではこれで四人か」 「打ち止めになるのを願うぜ。自分相手に戦うのは胸糞悪くてかなわん。とにかく帝国が貯めこんだ〈地図〉がここにあるのはわかった。あとは皇帝陛下そのひとだ。御座の間へ行くぞ」  俺は廊下を進もうとしたが、アーロンが何かを探すようにあたりを見回している。 「どうした?」  剣を負った男は険しい目つきをしたまま首をふった。 「セランが来たんだ」  あの怖いほどの美青年が? いつか帝都で、睨むように俺をみていたまなざしを思い出す。もう百万年くらい前の出来事のようだ。次に俺はもっと重要なことを思い出した。セランは〈使者〉だ。 「いったい何のために? おまえを止めにか?」 「いや……」アーロンは大股に歩きはじめた。「行政庁には皇帝位の転覆を企てる者たちがいるらしい。セランはその先鋒のようだな」 「どういうことだ?〈使者〉は皇帝にもっとも忠実な連中じゃないのか?」  俺が聞き返したとき、廊下の前方、御座の間の入口で青い光がまたたいた。みるみるうちに濃い青色の霧が前方をふさぎ、俺とアーロンに迫ってくる。霧の中から青く染まった太い腕がぬっと伸びた。巨大な手のひらがパカリとひらき、俺とアーロンの前に立ちふさがる。

ともだちにシェアしよう!