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【第3部 翼の定位】28.刻印

 竜石の青色にてらてらと光る手は、アーロンとエシュのゆくてを阻みながら節のある指をのばしてくる。突風のような〈法〉の圧力が押し寄せた瞬間アーロンは剣を抜き、両手で柄を握って腰をおとした。刀身は一瞬で黄金の輝きを帯びた。そこから澄んだ金色の光が伸びると、ふたりに向かう力を跳ね返した。アーロンは青い手がたじろぐように下がったのを見逃さなかった。すばやく前に足を踏み出し、走りながら剣をふりかぶる。  この青い手に実体はないはずだが、アーロンはたしかな反応を感じた。はたして、青い手のひらの親指と人差し指のあいだから斜めに金色の線が伸び、ひび割れのように広がっていく。ひびは青い領域を浸食するように広がり、ついに手のひらが黄金で塗りつぶされてしまうと、今度は小さく萎みはじめた。視界をうすく覆っていた青い霧が消え去り、アーロンの前に御座の間がぽかりと口をあける。  手首が痺れたように重かった。剣はまだ黄金の輝きをまとわりつかせている。 「行こう」  エシュの声が耳元をかすめる。御座の間の扉は開け放たれているのに、その向こうは濃密な闇に包まれている。アーロンは剣を松明のように掲げて前に進んだ。剣の光は自分とエシュを守るように包んでいる。  ふいに闇の中央に青い立方体が浮かび上がった。なぜか耳の奥がキンッと痛み、背後で何かが滑り落ちたような大きな音が響く。アーロンはハッとして一歩下がろうとしたが、できなかった。  背中と踵がさっきまでなかった壁に塞がれている。しかもその壁はゆっくり前にせり出していた。床もそうだ。アーロンとエシュは強引に中央の青い立方体へ引き寄せられているのだ。  アーロンは剣を握りかえた。さっきからずっと握りしめているのに柄は氷のように冷たいままで、それはアーロンに警告のようにも感じられた。だがふと横をみると、隣に立つエシュは魅入られたように青い立方体をみつめている。  立方体の一辺は肩幅ほどの長さで、つるつるの表面を輝かせながらふわりと空中に浮いていた。アーロンもエシュの視線をたどり、そのとたん立方体の中に何かの形――|像《イメージ》が浮かんでいるのに気づいた。  突然闇が消えた。 『予想外の客が訪れるのだな。エシュよ』  どこからか皇帝の声が響いたが、部屋のすみずみに反響し、いったいどこに声の主がいるのかわからない。さっきまでの闇はかき消え、御座の間は平坦な白い光に照らされていた。暗闇で青く輝きながら浮遊していた立方体は不透明な石の青に変わり、しかも床の上に鎮座している。  アーロンは反射的にふりむき、入口が同じ不透明な青の板でふさがれているのを確認した。ふりあおぐと天井がありえないほど高いところにあった。立方体の真上――ずっと上に皇帝が漂っていた。アーロンは瞬きした。皇帝は宙に浮いた御座にどっかりと腰をおろしているのだ。 『余が刻んだ印を失ってもそなたが生きていようとは』 「おまえがつけた印だと?」  エシュが皇帝に吐き捨てる。呆れたような口調だった。 「そんなもの、とっくの昔に消したさ。そうか――だからおまえは俺の偽物を作ったのか?」 『偽物?』  頭上から甲高い嘲笑が降ってきた。皇帝がこんなふうに笑うのをアーロンは一度も耳にしたことがなかった。世界のすべてを見下げているとわかる不愉快な哄笑には、かつてアーロンが皇帝に感じていた品位や威厳のかけらもない。しかし同時にこの笑い声からは、皇帝の中にある力の気配も伝わってきた。生半可なものではない。圧倒的な力だ。 『余のかわいらしいホムンクルスをそなたが偽物と誹謗するのはいただけぬな。余が手にしているのはそなたそのものだ。余はそなたの体に刻んだ印からそなたの|精髄《エッセンス》を写しとった。みよ』  皇帝の御座が高みからなめらかに下降する。アーロンにもその表情や顔立ちがはっきりわかる高さまで御座が下がると同時に、あたりがふっと薄暗くなった。目の前の不透明な立方体が輝きをもち、膨張しながら宙に浮く。やがて青く透きとおると、その上にぼうっと人影が浮かぶ。  はじめは半透明の輪郭しかなかった。しかしすぐに固いまとまりをもち、やがてそこにいるのは生身の人間そのものになった。アーロンはまじまじとみつめた。エシュ。  はさっき倒した模造生物(ホムンクルス)のように髪を切りそろえてはおらず、いつかアーロンが宮殿の晩餐会でみたときのように結い上げられている。服装もあの時と同じ正装で、憂鬱なまなざしであたりをちらりと見まわした様子はまさしく、アーロンも覚えているあのときのエシュそのままだ。と、突然その像は目の前に何者かがあらわれたように頭を垂れ、片膝をついた。  と、回転卓にでも乗っているかのように立方体がゆっくり動いた。『エシュ』の姿がアーロンの前でゆっくり回る。跪いた彼の顔の前を黒い影が横切る。『エシュ』は大きく口をひらき、唇に押しこまれるものを受けとめ、飲みこんだ。喉ぼとけが下がったのまではっきりとみえる。 「……そいつを消せ」  アーロンの横でエシュがつぶやいた。 「どうしてそんなものを――消せ!」 『ほう』  皇帝の声は余裕たっぷりだった。 『この姿こそそなたの本質をあらわすもの。余の印が写しとったのはむろん、これだけではないぞ』  エシュの手が上がり、杖から〈法〉の光輝がほとばしった。しかしその光は青い立方体のへりに当たって四散した。皇帝が両手をゆらりと持ち上げる。黒い手袋の先から力が解き放たれ、アーロンとエシュはとっさに後ずさった。 『そう慌てるな。落ちついて眺めるがよい。余のホムンクルスはこのを鋳型にしたのだ』  皇帝の手から放たれた力はアーロンを足止めするように立方体の周囲で渦を巻き、空中で青白い閃光をはなった。渦の向こうで皇帝の生み出した『エシュ』がいまだに片膝をついている。黒い影が『エシュ』の顎をとらえてなぞる。『エシュ』の口から唾液がこぼれおち、呻き声が漏れた。 「あっ…あああっあぅっ……」  両手を床についた『エシュ』の髪を黒い影がひっぱり、両腕をとらえて宙吊りにする。正装が千切れるように体から落ちていき、全裸になった『エシュ』の上を黒い手が這う。吊られたままの『エシュ』がぴくんと跳ね、みずから腰をゆすりはじめる。か細く喘ぐ声がしだいに大きくなっていく。 「あぅっ……ぁあ、ああんあ――や……んんっ――」  純白の輝きが立方体を撃った。 「やめろ!」  エシュが絶叫した。アーロンは剣を握ったまま足もとの渦を飛び越えた。斬りかかろうとしても立方体に手ごたえはなく、その真上では『エシュ』が快楽に呻いていた。膝をつき、尻の奥まで黒く太い影でつらぬかれ、激しく揺さぶられている。それなのに表情は恍惚として、ひらいた唇からはたえまなく悦びの喘ぎが漏れた。  見てはいけない――本能的にそう思ったのに、アーロンの目も耳も『エシュ』に吸い寄せられた。『エシュ』の背中を黒く細い影が打つ。一度、二度、三度。 「はあっ……んっ……へい……か――あああっんっ……あんっあっ…」  いやおうなく耳に入る甘い叫びに、あろうことかアーロンは自身の内部で欲望がたぎるのを感じ、愕然とした。劣情をかき消すように剣をふりあげた瞬間、皇帝の声がふたたび響いた。 『アーロン? どうだ、余のエシュは。よいであろう? そなたも欲しいであろう?』  すぐさま、腹を焼くような怒りで全身が震えた。理性では届かないとわかっていても、憤怒が体を勝手に動かす。アーロンは御座の皇帝に向かって剣をふりあげ、そのとたん皇帝の手から飛び出した力が首筋に命中した。  目の前が暗くなり、手足の感覚が薄れはじめる。剣を握る感触はなんとかわかったが、自分が立っているのかどうかもおぼつかない。 「アーロン!」  エシュが呼びかけるのが聞こえた。アーロンはゆっくり目をあけ、自分がまだ御座の間の床に、剣を支えに立っていることを知って安堵した。青い立方体の上にはまだ『エシュ』がいる。両腕を黒い影におさえつけられ、うつぶせになって突き出した腰に男根を受け入れている。ゆるんだ口元から赤い舌がのぞいて、蕩けたまなざしには快楽しか映っていない。  しかしアーロンの視線をとらえたのは『エシュ』の背中に刻まれた印だった。  帝国の印璽、竜をおさえつける剣の図案だ。アニマ・ドラコーの胎の中でエシュと抱きあった時に消えうせた印。そうだ――あの印はもう存在しないものだ。  潮がひくようにアーロンから真紅の怒りが消え、もっと冷たく強固な何かが同じ場所を埋めた。アーロンは一歩うしろに下がった。とたんに脛が皇帝の作り出した力の渦に触れる。  鋭い痛みが身内をつらぬいてもまったく気にならなかった。アーロンは心の中で竜を呼んだ。宮殿の外にいる竜ではない。自分自身の内部に潜んでいる竜だ。  。  それは心の暗がりの中で細い首をもちあげていた。黄金の眸をみひらいてみつめられたとき、アーロンは唐突に理解した。  竜の魂(アニマ・ドラコ―)は俺に――俺の精髄(エッセンス)にこれを潜ませた――いや、分け与えたのだ。だから俺はエスクーや他の竜たちと通じあえるようになった。  アーロンの中で竜が身震いする。背中がぱかりと割れたと思うと、人間が衣服を脱ぐように透明な皮から黄金色の胴体があらわれ、長い尾をしならせる。それは次の瞬間アーロンの意識から飛び出し、手首に固く巻きついたが、鱗のざらりとした感触を感じたのもまばたきするほどの時間だった。アーロンがもう一度手元を見下ろしたとき、剣の柄は竜の鱗の模様に変わり、黄金色に輝いていた。柄頭に竜の双眸がきらめいている。  耳のそばでブンブンと風が鳴るような音が響いていた。皇帝の力の渦はまだアーロンの両足を取り巻いている。しかし手の中にはいまや竜の剣とも呼べそうな武器がある。アーロンは剣を大きく振り、羽虫を払うように鬱陶しい力の渦を追い払った。そのまま上方へ跳びあがった瞬間、エシュが――立方体の上の(イメージ)ではない、本物のエシュが――何か叫んだ。  声はアーロンに届かなかった。耳元で風が吹きすさぶ音が鳴っていた。  風がある。御座の間の中にいるにもかかわらず、アーロンはそう思った。  これは翼を支える風だ。そうアーロンの剣に棲む竜がいった。  竜は剣に棲んでいたが、一部はアーロンの中にもいるようだ。それが両足を支え、跳躍を助けたおかげで、アーロンは一蹴りで青い立方体の上に飛び上がり、浮遊する皇帝の御座にやすやすと近づけたのである。そのままみえない竜の翼に支えられ、空中にうかんだまま竜の双眸が光る剣を御座に向けた。  御座は青く輝き、そこへ座る皇帝のふたつの目は暗黒の穴のようだ。ふいに耳元でうるさく鳴り響いていた風の音がやんだ。その時になってやっとエシュの声がきこえた。 「アーロン、罠だ!」  しかしアーロンの剣は待たなかった。金色の剣の先端から竜のかたちをした炎が燃え、御座へ襲いかかる。皇帝はぴくりとも動かなかった。みると黄金の竜の炎に照らされた顔は骸骨の白色で、骨だけの口腔には白い歯がのぞいている。ぽかりとひらいた眼窩のむこうには虚無の暗黒が広がり、こちらへむかって染み出すように伸び――  突然、暗黒の引力が黄金の剣をつかんだ。  アーロンは敵の意図を悟った。皇帝はこの暗黒の中心へ俺と竜を引きこもうとしているのだ。この剣は暗黒を斬れるだろうか。  いまさら剣を捨てることはできなかった。アーロンの腕と手はすでに竜の剣と一体になり、両脚はみえない竜の翼と同化していた。またエシュの声がきこえた。叫んでいるわけでもないのに、はっきりわかったのだ。 「アーロン、俺は絶対に、おまえをひとりで行かせない――」  その直後、世界は閃光とともに爆発した。

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