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【第3部 翼の定位】29.奔放

   *  俺はずっと、が気に入らなかったのだ。  あの剣は最初俺の夢のなかにあらわれた。  その夢は俺がルーに拾われて帝都にやってきて、予備学校に入ったころにはじまった。俺は物陰から銃を手にして、剣を握ったアーロン――十四歳のアーロンではなく、大人の男になったアーロンと、その足もとで死んでいる竜をみている。声が――「彼を殺して英雄になりなさい」という命令が、俺の頭蓋に反響する。  この夢は士官学校へ進んでからも、そのあとの軍大学時代も、ずっと俺を苦しめた。とはいえ夢のなかでアーロンが握っていた剣は、つまるところただの夢でしかなかった。  剣が実在するという疑いを最初に持ったのは黒鉄(くろがね)竜の巣におびきよせられた時だ。反帝国の何者かが剣を握り、黒鉄竜を操ろうとしていた。そのあとイヒカが消え、俺が団長になって〈黒〉を再編してから、いまアーロンの手にある剣が反帝国のアジトから発見された。みつけたのは俺だ。  皇帝は剣の発見を予見していた。俺は剣がアーロンの手に渡るのを恐れたが、皇帝は俺にあの剣を下賜した。アーロンを殺せと命じて――ところが実際にあの剣を握ったのはアーロンだった。とっさの出来事だったとはいえ、アーロンはあの剣で巨竜に立ち向かったのだ。  俺はあのとき、剣も竜に呑まれて消えたものと思っていた。ところが俺たちがアニマ・ドラコーの胎を通ってこの世界に帰ってくると、剣はまた辺境の砦に戻っていた。まるでアーロンを待っていたかのように。    *  今、俺の頭上であの剣は黄金色に輝いている。竜の眸のような宝石が柄に宿り、その先にのびる刃を囲むようにして、竜の頭のかたちをした炎が燃えている。アーロンの手首と腕も金色の光にのみこまれ、剣とひとつになってしまったようにみえる。宙を浮かぶ皇帝の御座へアーロンが腕――剣をのばすと、炎はますます明るく輝いて目が眩む。俺は自分が冷静さをなくしていたのを悔やむ。皇帝が呼び出した屈辱的な(イメージ)はたしかに効果があった。  それにしてもアーロンはいったいあの剣に何をした? 剣の柄で輝く宝石はアニマ・ドラコーの胎内にいた小さな竜を思い出させる。ひょっとしたら、あの剣が俺の夢に神の命令と共に現れたのは、あれもまた神々がこの世界を操作するための道具だからか。だからこそあれは皇帝の予見にあらわれ、そして都合のいいタイミングで俺やアーロンの前に出現した。  神の道具。そうだ、アニマ・ドラコーも、最初は神々の道具として作られたといった。しかしあいつは道具であることをやめて竜の魂(アニマ・ドラコ―)と名乗り、俺とアーロンをこの世界へ戻す時に自分の力を分け与えた。あの剣で輝く竜の炎がアニマ・ドラコーのものだとして、その一方で御座の皇帝は竜石の力を手に入れている……。  一瞬でかけめぐった思考がまとまる前に俺は叫んでいた。 「アーロン、罠だ!」  皇帝もあの剣を知っていて、アーロンも、アニマ・ドラコーの力も丸ごと飲みこむつもりなのだ。だから俺の(イメージ)を餌にしてアーロンを怒らせ、あいつの内部に潜んでいた竜を呼びだした。  俺の声は届いただろうか。だが次に俺に見えたのは、皇帝の顔のあたりからあふれた真っ黒の闇が、輝く剣ごとアーロンを塗りつぶそうとするところだ。  ちくしょう。だめだ。  絶対にだめだ。  俺はやっとを捕まえた。  アーロン、たとえ世界は神々が作ったゲーム盤にすぎず、おまえも俺もその中で動かされる駒以上のものではないとしても――おまえも俺も、大きな指に運ばれてちっぽけな生を何度も繰り返すだけの存在だとしても――他の時空に何人もの「アーロン」が、冷酷に竜を殺す男がいるとしても――  俺が出会ったのはおまえだけだ。 「ひとりで行かせない――」  体のいたるところ、腹の底や胸の奥や腰の中心で、|箍《たが》がはずれたような感覚が起きた。俺の体を俺のかたちに保っていた枠が外れて、俺は俺を超えてへ流れ出る。  手や足の区別はない、俺は世界にあふれだし、席巻する、流れる俺の邪魔をするのは硬く透明な四角い物体で、ひとつひとつは小さいのに寄り集まって俺が流れるのを阻もうとする。  俺はそいつらを押し流してバラバラにした。バラバラになった物体のひとつひとつには、形を失くす前の俺のように中に閉じこめられているものがあった。  かわいそうに。へ来い。俺は流れに――自分自身に物体を取りこみ、もみくちゃにした。物体は俺の中でぶつかりあい、砕け散って、拡散した。  あたりが真っ白に輝く霧で満たされ、砕けた物体の残骸がきらきらと光った。光はふわりと上にあがり、羽根のような、雪のような小さなものが舞い上がり、俺の目の前で散っていく。いつのまにか俺は流れではなくなり、もとの体の中に戻っていた。飛んでいく小さなものをみつめながら、なぜか俺は涙を流している。  足もとが揺れた。明るい白い霧に包まれたまま世界がぐにゃりと曲がり、回転する。唐突に目の前に虹色の曲面があらわれた。真上から風が吹きつけてくる。俺の足の爪先に虹色の卵が鎮座していた。なぜこれがここにある? 辺境の砦で守られているはずなのに。  どこか遠くで竜がうるさく鳴いていた。俺は二本の足で硬い床に立っている。周囲は夜の暗がりに包まれ、上から風が吹きつけてくる。おかしい。ここは宮殿の奥、皇帝の座所だ。なぜ風が吹いてくる?  上をむくと星空が広がっていた。キィイイイイ、とまた竜が鳴く。あれはエスクーの声じゃないか?  その時やっと俺は気づいた。ドルンの頭が宮殿の天井をつらぬいて、こちら側へ飛び出している。御座の間の壁と天井の半分は崩壊していて、ドルンは棘の生えた頭をドリルのように押しこみ、残り半分もぶっ壊そうとしているのだ。鉤爪がにゅっと伸びてきて、俺はあわてて横に飛んだ。壊れた壁のあいだからツェットの眸がのぞき、キュウゥン、と不満そうに鳴く。  いったいどうなっている? 何が起きた? 俺は何をした? アーロンと皇帝は?  俺は壁の隙間から外に出たが、すぐにそこが宮殿の廊下のなれの果てだと気づく。あたり一面瓦礫の山で、行政庁や宮殿の周辺を飛ぶ竜たちがひどく興奮している。俺は瓦礫のあいだを歩き、地面がキラキラ光る粉で覆われているのに気づいた。触ると一瞬おいて消えうせ、あとには何も残らない。これはいったいなんだろう?  不思議に思いながらあたりをみまわすと、透明な立方体が瓦礫のあいだにいくつも落ちている。ひろいあげると何かの〈地図〉だった。そうだ、このあたりに宝物庫があったのだ。〈地図〉はけっして壊せない―― 「エシュ」  しわがれた声が背後で響いた。  俺は飛び上がるようにしてふりむいた。声の主は俺の三歩うしろに立っている。顔は星明りだけでもよくみえたが、俺は何度もまばたきした。自分がみているものが信じられなかったからだ。 「皇帝――陛下?」  皇帝の顔は何十年も一気に年老いたように皺だらけだったが、胸から下げた印璽はまちがいなく帝国皇帝のものだった。 「やってくれたな。エシュ。余が……余らが何代にも渡って集めた竜の〈地図〉を壊すとは。余の竜石も台無しにしおって」  俺には皇帝が何をいっているのかわからなかった。まだ事態を把握できていなかったのだ。 「〈地図〉を? まさか、そんなことが――」  皇帝の顔がくしゃりと動いて、しゃっくりに似た奇妙な音を立てた。 「そなた、自分のやったことがわかっておらぬのか? そなたはこの世でありえないこと、してはならないことをしたのだ」  長い袖に隠れていた皇帝の手首がにゅるりと俺に向かって突き出される。骨ばった指のあいだに俺は竜石の青色をみた。〈法〉の輝きが俺にむかってほとばしろうとしたそのとき、俺と皇帝のあいだを黄金の影が横切った。アーロンが剣を握り、皇帝と俺のあいだに割りこんできたのだ。  バタバタと竜が羽ばたいてツェットが舞い降りる。俺はあわててハーネスをつかみ、竜の背中によじ登った。アーロンは剣を振り、皇帝が繰り出す〈法〉と戦っている。アーロンの剣はまだ金色に光っていた。皇帝の手から飛び出す青い光を受けとめ、はじき返している。俺は杖を探すがみつからない。ちくしょう、どこにいったんだ。 「ドルン、エスクー!」  俺は竜に呼びかける。先にあらわれたのはエスクーで、そのまま大胆に急降下し、皇帝の頭を鉤爪でとらえようとする。アーロンの口元があがり、一瞬だけ目があった。竜を追い払おうと皇帝が頭上に〈法〉の一撃を飛ばしたそのとき、すぐ前に踏みこんだアーロンの腕が上がり、黄金の剣が振り下ろされた。  アーロンの頭が揺れ、切っ先が皇帝の肩に落ち――  そのままの姿勢で止まった。  風がやみ、音が消えた。アーロンはおなじ姿勢のままぴくりとも動かない。皇帝が放った〈法〉の輝きも空中に留まっている。  俺はあっけにとられた。ツェットは俺を背中に乗せて空中を浮いているが、まるで彫刻のように動かない。俺はハーネスを引っぱろうとしたが、これも彫刻の一部になったように鱗の表面に貼りついている。  俺はあわてて周囲をみまわし、ドルンもエスクーも、ツェットと同じように空中で固まっているのをたしかめた。まるで時間が止まっているかのように。  今度こそ、いったい何が起きた?  途方に暮れて俺は空をみあげた。黒い空を背景に星ぼしが凍ったように輝いている。あまりにもギラギラ輝いているので俺は遠近感がわからなくなった。まるで黒い紙か布に白い砂をこぼしたみたいだ。  ところがもう一度まばたきしたとたん、不透明だった黒色が透きとおってきた。今は星ぼしが黒い硝子に浮遊しているようにみえる。と、今度は黒硝子がぷるぷると震え、空が割れて白い弧ができた。 (そんな馬鹿なことがあるか) (固化したメディウムが壊れるはずがない)  遠くで何者かが言葉を発している。俺は世界から星空が消えうせるのを目撃する。瓶の蓋が外れる様子を内側から眺めているみたいだった。白い弧が大きくなり、半円になり、やがて全部が真っ白になった。

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