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【第3部 翼の定位】30.虚空

 どこか遠くで、巨大な手が白い砂の山をかき混ぜていた。  砂山は大きく平らな円盤にのり、ゆっくりと回転していた。ひとつの手が砂をかきまぜると一面が虹の七色に変わった。そこへ別の手が加わりもう一度かきまぜた。虹色の混濁は陸と水の層に分かれた。さらに別の手が入ってかきまぜると、陸が盛りあがり、湖があらわれ、川が流れた。手は陸や水の中を動き回り、あちこちを弄った。すると円盤の上を動くものがあらわれた。  手はあちこちで忙しく働いているようだ。いつのまにか円盤の中央に巨大な星型をうがたれ、その周囲に大きな円が描かれた。円の外側には小さな星型がいくつも配置された。円盤の上を動くものの数も増えていく。手はときおり円盤の上から光るものをつまみ上げ、別の場所へ移した。  アーロンは手が忙しく働くのを遠い場所から眺めていた。  体の感覚はどこにもなかった。あたりは無音だ。なぜか目だけの存在になってしまったようだった。たしか、エシュを援護しようと皇帝に斬りかかった――と思ったのだが。  眺めているうちに円盤の回転速度が速くなったように感じた。さっきまで円盤の表面にあった手がすべて、いつのまにかどこかへ消えている。しかしそのあいだも円盤はずっと回り続けていた。くるくる、くるくる、果てしなく……。  きっと夢をみているのだ、そうアーロンは思った。アニマ・ドラコーの胎の中でもおかしな夢をみた。  しかしこの円盤はどうも、自分の知っている何かに似ている。  アーロンはすぐ答えに思い至った。考えるまでもない、学生時代にやりこんだ戦略シミュレーションの盤面に似ているのだ。士官学校のころも軍大学のころも、エシュを相手にくりかえし対戦したものだ。  突然、円盤の表面で白い光が散乱した。光はやがて薄れたが、またはっきりみえるようになった円盤は回転を止めてしまっている。  どこか遠くから言い争うような声がきこえてきた。 (……まったく、何て状況だ。あの時点で初期化してやりなおすべきだった。独立因子に異常があるとわかっていたのに放置して進めるからだ) (放置だって? 放置してたのはそっちだろ)  音が聴こえることにアーロンはほっとした。しかし声が何の話をしているのかは見当もつかない。 (こんな時に喧嘩はやめてくれ。停止が長すぎるとシステムに異常を感知される) (初期設定竜群の機能は勢力バランサーしかない。数が少なければまだ補正可能だ) (だからその数が多いんだよ! 予測分岐に従って修正中だが、簡単じゃない) (どうしてこんなことになったんだ。なぜ調整ができなかった? 神格介入は?) (できなかった。他に誰もいなかったんだぞ) (資源も予算も足りないのは承知の上だろう。それでも続行すると言い張ったのはそっちだ)  これも夢にちがいない、とアーロンは思う。俺はまたアニマ・ドラコーのような存在に捕らえられてしまったのかもしれない。 (落ちつけ。あのとき初期化しなかったのは、独立因子の異常こそが鍵になると考えたせいだ。思うに、こうなってしまった以上、この異界系は模擬実験の段階を過ぎ――あれはなんだ?)  声の調子がアーロンの注意をひいた。意識を円盤の中央へ集中させると、拡大鏡を使ったように円盤上の光景が大きく視界に広がった。それは数色で塗りわけた棒人形をあちこちに配置した都市だった。帝都だ。  そういえば士官学校のゲームルームにはこんな仕様のゲーム盤があった。授業とは関係ない遊びのゲーム盤だったから、息抜きに時々プレイしたものだ。  盤の上でカタン、と小さな音が響いた。  アーロンの意識は自然にそちらへ流れた。みると棒人形のひとつが動いていた。真っ黒に塗られた人形だ。アクセントのように金色の線が二本、顔の部分に描かれている。アーロンはエシュの髪に混じる金色を自然に連想した。人形はカタカタと不器用に帝都の中を移動していた。 (あれは特異点に干渉するための転移因子だ。停止した系でどうして動ける?) (これもあの時の異常の結果か? おい、もうあきらめろ。初期化の過程でエラーが出るなら中和して消滅させるべきだ) (馬鹿いうな、いま起きているのは自律反応じゃないか)  声に雑音がまじる。ぼそぼそと何か話されているが、内容はききとれなかった。アーロンは気にならなかった。さっきから、注意が人形へむいていたからだ。  円盤の上で、人形は他の動かない人々をひっぱり、立たせ、移動させようとしていた。やがてアーロンはその目的を理解した。なんらかの結果を求めて、戦略上有利な配置を作るために人々を動かしているのだ。 (あれは他の存在がすべて停止しても戦っている。それなのにこの異界すべてをなかったことにしようっていうのか?)  突然アーロンはを取り戻したことに気がついた。右の手首をいきなり引っ張られたからだ。  アーロンは白い虚空に宙づりになっていた。頭上にはさっきまで砂山の円盤だったものがあった――が、今アーロンにみえる表面は、内側に星空をたたえた美しい半球に覆われている。手首には輝くロープが絡みつき、ロープの先は半球に吸いこまれていた。  手首のロープがぎゅっと締まり、揺れた。骨を通じてよく知った声が聞こえても、アーロンは不思議にも思わなかった。奇妙な夢や出来事に遭遇しすぎたせいだろうか。このエシュは夢なのか、本物なのか。どちらでもよかった。この男を信じていた。 「アーロン。しっかり握れ」 「エシュ」  アーロンはもう一方の手をのばし、星をつらねたように輝くロープを掴むと、星空の半球めがけて登りはじめた。

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