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【第3部 翼の定位】31.終極
俺はいまジオラマという言葉を思い出しているところだ。
前世ではあちこちでみかけたミニチュア模型の立体展示――いま、俺の周囲の世界はまさにこれだ。星空は消え去り、あたりは影を落とさない、蛍光灯のような光に照らされている。平坦で現実感がない建物と地面のあいだに、生命を失った彫像のように竜が立ちすくんでいる。
かがんで触れた地面は乾いてカサカサしていた。俺は一歩踏み出し、そのとたん足のまわりに赤い光でマス目が描かれるのに仰天する。碁盤目のような、あるいは座標のような線は俺の歩みに従って伸び、この世界の位置を示した。
ああ、こんなゲーム、俺は知ってるぜ。駒を配置して、効果をシミュレートするんだろ?
そう思ったとたんにため息が出た。問題は俺がその中にいるということだ。
「やれやれ、うんざりだ」
俺は思わず口に出していった。俺は竜を――ドルンを解放したかった。そうなれば当然のように皇帝と対決しなければならない。ところがその結果がこんなおかしな事態になるなんて、これこそ前世のむくいというやつだろうか? 前世の俺が、恋人と一緒にやれることがゲームくらいしかなかったってことの? それともこれは単純に今生のむくいなのだろうか。
だいたい、生きているってだけでこんな奇妙な目に遭うなんて、誰が思うだろう。
心の中で愚痴を吐いたせいか、すこし冷静な気持ちが戻ってきた。俺はあたりをみまわした。
皇帝はいるのに、アーロンがいない。いや、さっきはたしかにいた――いつのまに消えた?
俺は皇帝を御座からひきずりおろした。紙と軽石で作られたみたいに軽かった。アーロンが振り下ろした剣は寸前で皇帝を殺さなかった。俺にとっては良いことだった。このあと誰が皇帝の座につくとしても、あいつに手を汚してほしくなかったからだ。
俺は関節可動式のハリボテみたいになった皇帝を土の上に座らせ、どんなシーンを作れば帝国の未来が「いい感じ」になるだろうかと考えた。たしかアーロンは、行政庁に譲位か帝位簒奪を考える一団がいるといわなかったか? セランがその一員であるとも。
なるほど、セランか。というわけで俺はその場を離れ、セランをさがした。帝位簒奪の陰謀家が一芝居うちやすいように、駒を配置してやろうじゃないか。いや、譲位のシーンを作ってやる、という方がいいか。さらに俺は〈黒〉の連中もさがした。みんな皇帝陛下同様に関節可動式のハリボテになっていて、重さはほとんどなかったが、バラバラの場所にいる者を引きずってきて、必要な場所に立たせるのは手間がかかった。でも俺は腹も減らなかったし、少なくとも肉体に疲れは感じなかった。
いったい、このジオラマの世界の時間は、俺の時間はいったいどうなっているのだろう。たぶん俺はある種のチートを行使しているにちがいない。だとすればこれはフェアなゲームプレイじゃない、ということになるんだろうか。しかし一度死んだ俺を勝手にこの世界へ、しかも条件付きでスカウトしておいて、いまさらフェアもくそもないんじゃないか?
とにかく俺は動きつづけた。宮殿、行政庁、軍本部まで往復して、必要な場所に兵士を配置した。地面に座っていたドルンすら引きずって――重さはほとんどなかったが――ぶっこわれた宮殿の瓦礫も多少片づける。
考えると何時間も、いや何日もかかりそうな作業だったが、俺は黙々と作業をつづけた。体は疲労しなかったが、何度か顔をあげて全体の光景をたしかめるたびになぜか泣きたい気持ちになった。涙は出なかった。
実際のところ、俺も他の連中みたいなハリボテなのかもしれない、という疑いも頭にうかんだ。停止させたのに、エラーで動きつづけている機械みたいになっているじゃないだろうか。
この世界にはたしかに神がいるのかもしれないが、しかしひどい造物主もあるものだ。どうして俺ひとりだけがこうして動けるんだろう。俺が転生者だから? 神々に道具として造られたにもかかわらず、みずから意思と名前を持ったアニマ・ドラコーが俺とアーロンに力を与えたからか。それならアーロンもどこかにいるんじゃないか。あいつのハリボテはどこにもみつからなかった。
こんなところを一人でさまよわなければならないなんて、ひどすぎる。
どのくらい動きつづけたあとだろうか。ついに俺は地面に座りこんだ。
さっきから時々、ひとの声らしき音がきこえていた。しかしジオラマのハリボテ人間には口がなく、話すことはできない。それに声はどちらかというと、小さな音量で流れている放送のようだった。
何が放送されているにせよ、俺とはチャネルが――周波数が合わないらしい。雑音が多すぎて何をいっているのかわからないのだ。とはいえこんなジオラマ世界の中で、得体のしれない放送がちゃんときこえないことに頭を悩ませるなんて、それ自体馬鹿げている。
そうはいっても、結局聴きとろうと努力はした。今の俺の状況を打破する手がかりがあるかもしれなかった。しかしいくら耳を澄ませても「こん……**はや▲◇☆れ。停止……◆■□***異常を感知★▲▽」といった調子にしかきこえない。
俺は鬱陶しくなり、逆に音を無視することにした。立ち上がって次に何をすべきか考えようとしたとき、急に言葉がはっきりきこえはじめた。
どうやら、何かのはずみに周波数が合ったらしい。内容はメディア放送のようなものではなかった。ただの会話――いや、言い争いだ。
(おい、何をしようとしてる。そのコマンド、異界の位相を実在領域へ拡張するものじゃないか)
(まさにそれをやろうとしている)
(マジか、正気かよ、やめてくれ)
(大丈夫だ。こっちの現実は浸食されない。フェイズが重ならないからな)
俺はあっけにとられた。いったい何の話をしているのか。この早口、まるでシュウが喋ってるみたいじゃないか。内容はわけがわからないとはいえ――いや、まさか。
俺はハッとする。まさかこれがこの世界の『神々』の肉声なのか?
(異界が自立したら干渉もできなくなるし、環境の安定性だって)
(その問題は転移因子が特異点と結合して解決した。介入できなかったあいだにバランサーが一方に偏りすぎていたから、消滅したのはむしろ利点だ)
夢できいた声の響きとはずいぶんちがうな、と俺は思った。夢のなかではもっと威厳があったのに。目覚めたあともずっと、俺を悩ませるくらいには……。
そう思ったとたん、おかしな笑いと泣きたい衝動が同時にこみあげてきた。俺はぐるぐると意味もなく御座の周辺を歩きまわり、瓦礫をずらして、剣の隣に虹色の卵があるのをみつけた。
意外にもこのふたつは他の物体のようなハリボテではなかった。重かったのだ。特に剣は俺の記憶にあるよりも重かった。
(――みろ、あれは他の存在がすべて停止しても戦っている)
放送はまだ続いていた。あれっていうのは俺のことか。
(それなのにこの異界すべてをなかったことにしようっていうのか?)
「なあ、神さま」
俺は腕をのばし、切っ先を上に向け、剣を掲げた。
「俺はまだここにいて、アーロンをさがしている。生きているって、こういうことか?」
剣の重みに俺はよろめいた。握った指がびりっとした。柄には黄金の眸がふたつひらいていた。俺の腕は勝手に上に伸びあがった。剣はアーロンが皇帝につっこんだときのように炎を出すのかと思ったが、その先からは光る紐のようなものが伸びただけだった。紐はこの世界を覆っている白い蓋に吸いこまれる。
何かがどこかへ届いたという感触のつぎに、上の方から何かが落ちてきた。左右から突風が吹いて、俺は吹き飛ばされないよう地面に伏せた。
「エシュ! エシュ!」
誰かが俺を呼んでいる。俺は目をあける。星空を背景にドルンが翼を広げていた。その足元に虹色の卵がある。金色の剣の先端が卵の殻に突き刺さっていた。
俺は驚き、立ち上がろうとした。そのとたん剣はぽろりと卵から落ち、殻に大きなひび割れが生まれた。ドルンが唸り、翼を折り曲げる。卵の内側で何かが動いている。
ひび割れがもっと大きくなり、一部が欠けた。ピィピィと鳴く声がきこえてくる。ドルンが首をまげ、そっと殻をつついた。割れ目が大きくなり、竜のヒナが頭をのぞかせ、ついで体をよじった。殻のあいだからあらわれたのは純白の竜の仔だ。
金色の眸が俺をみつめ、ウインクした。剣の柄にうかんだふたつの眸とおなじ色だ。
アニマ・ドラコー。
ドルンが仔竜を隠すように翼を広げた。自分を仔竜の庇護役ときめたらしい。俺は一歩うしろにさがった。背中がぽんと何かに当たり、バランスを崩しそうになる。温かい腕が俺の腰に巻きつき、吐息が俺の首にあたる。アーロンの匂いがする。無言で俺を抱きしめている。
俺は顔をあげ、ドルンの向こうに〈黒〉の面々が立っているのをみた。世界はもうジオラマではなかった。神々は行ってしまった。
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