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【第3部 翼の定位】32.解放
アーロンは実体を取り戻した帝都の堅い地面に降り立ち、すぐ前に立つエシュと共に純白の仔竜が卵から孵化する様子をみつめた。エシュがドルンをみつめながら一歩下がる。アーロンの腕は自然に愛しい男の腰にまわっていた。黒髪に顎をうずめ、たしかめるように強く抱きしめる。
目の前の世界はもはや夢ではなかった。翼で仔竜を隠したドルンの向こうに〈黒〉の隊員たちが驚いた表情でたたずんでいる。崩壊した宮殿の中心では御座から転がり落ちた皇帝がぶざまに四つん這いになっていた。その頭が揺れたとたんアーロンは兵士の反応を取り戻した。
虹色の殻のあいだにのぞく剣の柄めがけて疾走する。しかし剣から黄金の輝きは失せていた。おまけにアーロンの指が触れたとたん、砂が崩れるように粉々に砕けた。そのあいだにも皇帝は枯れ木のような手で胸にさげた印璽を持ちあげている。その顔は骸骨でこそなかったが、皺だらけの老人のものに変わっていた。しかし印璽を握った手は震えもしなかった。青白い光とともに強い〈法〉の圧力がドルンめがけて一直線にほとばしった。
力のうねりは触手のようにドルンの頭にまきついた。精髄 を捕えて〈地図〉に還元するつもりだ。まだこんな力が残っていたのか。
ところが灰色竜はまったく動じなかった。〈法〉の触手はドルンの内部へ侵入できないようだ。竜はまとわりつく虫をはらうように頭を振った。皇帝は唸りながら立ち上がったが、竜には何の変化もおきない。
「無駄さ」
エシュがいった。
「あんたの負けだ。竜はもう帝国のものにはならない」
ドルンのむこうに寄り集まった一団のあいだでどよめきが起きた。「何をいってる!」とひとりが息巻く。すばやく反応したのは〈黒〉の隊員だった。叫んだのは行政庁の官僚だったが〈黒〉は彼らの周囲を囲み、威圧したのだ。
「〈黒〉の者ども」皇帝がしわがれた声をあげる。
「〈黒〉は余の配下だ。余の後ろ盾がなければ軍団などと到底いえない者どもが、何を勝手に――いったい〈紅〉や〈萌黄〉は何をしている!」
エシュは皇帝の前に大股で進み出た。
「たしかにこの世界の原理はいまだ〈地図〉と〈法〉による。でも人を〈地図〉にするのは禁忌だった。これからは竜もそうだ。まだ気づかないか? 帝国が使役した竜が今、どうなっているか」
皇帝をはじめ、人々はいっせいにあたりを見回し、空をみあげた。アーロンはこのときになってやっと気づいた。宮殿からはるか遠くで竜が咆哮の声をあげ、空中を飛び回っているのだ。数頭の飛竜が空を舞い、定められたコースなどおかまいなしに飛び去った。以前の帝都にはありえなかった光景だ。
「エシュ、俺たちの竜はいるぜ」いささか困惑した表情で〈黒〉の副官、ティッキーが応じた。
「変異体は〈黒〉が育てたからな。絆が強い。それにアーロンのように、群れをまとめる者がいれば残っている。そうだろう?」
その通りだ。アーロンは宮殿を囲めと命じた竜たちがまだこのあたりにいて、群れの長を待っているのを感じとった。剣は消えうせたが、竜と繋がる力はなくなっていない。
「帝国の竜の支配の基礎だった〈地図〉は消滅した。これから帝国臣民は野生化した竜と共に生きていかなくてはならないのさ」
皇帝は両膝を震わせながら立っている。
「余は……アニマ・ムンディを得るはずだった……神の導きで……」
ゆらりと傾いた体が地に崩れた。
「陛下!」
叫び声があがり、〈黒〉の制止をふりはらって数人が駆けよった。アーロンは先頭にセランの美貌と〈使者〉の白い服をみた。彼らは年老いた皇帝を抱きおこしたが、変わりはてた帝国の支配者を間近にみたとたん、驚愕の表情がうかんだ。それでも御座に抱え上げようとする者たちへ皇帝は反応をかえさず、エシュの方をみて首をふる。
「神はもうおまえに語らない」
皇帝に語りかけたエシュの声は無慈悲なほど明瞭に響いた。
「彼らは俺たちにこの世界を任せて行ってしまった。壊れるはずのないものが壊れるというのは、そういうことだ」
皇帝の喉から細く長い声――息がもれる音が響いた。
セランが数人の官僚とともに皇帝の前に膝をつく。口元がかすかに動いているが、声はきこえなかった。影になって唇も読めない。皇帝のしなびた手がのろのろと持ち上がった。不器用な動作で印璽を胸元から外している。セランがさしのべた手のひらに印璽をのせると、皇帝はひどくゆっくりした動作で指を離した。手がぽとりと下に落ち、帝国の支配者は両眼を閉じた。
すると、薄青い小さな光の円が皇帝の胸のあたりに浮かび上がった。
「セラン、離れろ!」
エシュが叫び、セランの体をかっさらうようにして後方へ飛び退った。時をおかずして皇帝の体から青い炎が燃えあがった。突然の出来事に呆然とした人々の前で、炎の中にあった人のかたち――皇帝の体が崩れていく。あっという間のことだった。
空になった御座の前で官僚のひとりが苦痛に呻いていた。青い炎を避けそこね、指先が焼けただれてしまったのだ。セランはエシュと共に地面に尻もちをついていた。右手に印璽をにぎったまま、呆けたような表情で御座に残された一塊の灰をみつめていた。
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