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【第3部 翼の定位】33.還流

 イヒカが岩のあいだに着地した灰色竜をみつめて首を傾げている。 「エシュ、あの竜だが……様子がおかしくないかね?」 「あいつはドルンだ」俺はそういいながら大きな灰色の翼に隠れた白い仔竜を指さした。 「隣のあれにはそんな可愛い名前はついてないけどな」  アニマ・ドラコーの眸をもつ仔竜は尋常でない速度で成長していた。誕生からまだ二十日しか経っていないのに、大きさは一年仔にひけをとらない。 「そうか――で、そのドルンだが」  イヒカは伸びあがるようにして竜たちをみつめた。俺たちが立っているのは砦の真上につくられた物見台だ。岩にみせかけた塗装と灌木のしげみでカモフラージュされている。もっとも、帝国の体制が大きく転換している今は、こそこそと隠れる必要はない。 「あれがつまり〈黒〉の変異体の親玉、きみが乗っていた竜だろう? 先代皇帝存命の折は悪鬼のようにこのあたりを席巻していた……」 「ああ、そうさ」 「その竜なら私もここを襲いにきたのを目撃した。きみが大手を振って〈黒〉にいたころのジャーナルにも載っていた。でもその時は……もっととげとげしい見た目じゃなかったか?」  たしかにイヒカのいっていることは正しい。俺は鋭い棘が抜け落ちたドルンの頭部を眺める。形はエスクーに似て、なかなかの美形だ。 「丸くなった。仔のせいかも」 「そんなことがあっていいのか?」  元上官は例によって飄々とした口ぶりでたずね、俺は顔をしかめた。 「俺にきくな。現にそうなってる」  二十日前、帝国の歴史を一気に変えるような出来事が起きたあの日、ドルンは虹色の卵から生まれた竜の仔の庇護役を買って出て、それからずっとあの仔のそばにいる。ここへ飛ぶときも仔竜を自分の影に入れ、眠るときも翼を広げて守っていた。  ドルンを皇帝の支配から解放したあの日以来、実は俺は一度も彼に乗っていない。でもドルンはあいかわらず俺を群れの仲間だと思っている。だから俺がツェットに乗ってここへ来るとき自発的についてきたし、庇護する仔竜も一緒に連れてきた。  棘が抜けはじめたのは辺境に来てまもなくのことだ。生え変わるのかとも思ったが、今のところその気配はない。棘の痕の醜いぶつぶつは盛り上がった鱗が塞いでしまった。 「もっと前にこうなっていれば、あんなに苦労しなかったのに」  ドルンの頭を眺めながらつぶやくと、イヒカは緊張感のない声で聞き返してくる。 「苦労って?」 「特注の装備を作ったり、手袋を何枚も重ねたり、大変だったんだ」 「ああ――なるほどね」イヒカはしたり顔でうなずく。「私にもしその役が振られたら、いったいどうしただろうな」  俺はため息をついた。 「あんたのことだからのらりくらりと逃げたでしょうよ。そうでなきゃ――俺に全部押しつけたにきまってる」 「たしかに。頼れる副官に全部任せたな」  イヒカはわざとらしく手を打ち、俺もわざとらしくしかめっ面を返した。  帝都と辺境の関係が一変したあの日からもう二十日。いや、まだ二十日というべきだろうが、辺境は平穏なものだ。それは帝都も同様だった。帝国の中心に一大転換が起きたといっても、統治体制の変更で右往左往して汗をかいているのは今はまだ高級官僚と軍人だけである。輸送や物流、それに竜に関係した産業や職業は大きな変更を強いられている。しかし変化ははじまったばかりで、帝国臣民のほとんどはまだ真の意味で実感を持っていない。  第一、帝国臣民のほとんどは真実を知らないのだ。二十日前に何が起きたのか。  おおまかな事実を説明しようとするならば、〈黄金〉のアーロンと〈黒〉が辺境の反帝国と組んで皇帝を弑逆した――といっても間違いではないはずだ。しかし公表された事実はそうはならなかった。公式発表では、宮殿の皇帝陛下は、エネルギー供給網停止の影響で帝都を襲った災厄を防ごうとして力尽き、永眠したとされている。みとったのは腹心の〈使者〉と官僚の一団で、十代の皇位継承候補のひとりが次の皇帝位についた。  皇帝陛下崩御の際、手づから印璽を託された〈使者〉のセランが新皇帝の相談役についた。彼の生家のラングニョール家がこの一年のあいだ、宮殿に隠然たる影響力をおよぼしていたとか、セランが懇意にしていた高級官僚たちが新皇帝を支えているといったことは、政治ゴシップ記事の一部にちらりと出たものの、今のところ大きな話題にはなっていない。帝国はもっと大変な事態に直面しているからだ。  危急のことがらは次のふたつである。ひとつは災厄によって帝国が保持していた竜の〈地図〉が消滅し、標準種の竜が野生に戻った、ということ。帝国による竜の使役と産業利用は急速な見直しを迫られている。もうひとつは、先代皇帝の逝去と同時に〈黒〉が城壁都市の独立を宣言したこと。  城壁都市の独立など、帝国軍が従来通り機能していれば鼻で笑われたにちがいない。しかし災厄の影響で他軍団は自軍の竜を制御できなくなり、一方で〈黒〉の変異体とアーロンが指揮する竜は現役だった。さらに城壁都市に残ったシュウは帝都を守るための壁を、帝都を包囲する壁に変えてしまったのだ。  城壁都市の住民は帝都へ脱出する者と、逆に独立を支持して居残る者に分かれ、そこに辺境から移った者が加わった。いくらかの小競り合いや緊張があったものの、先代皇帝崩御から三日後、新皇帝は(正確にはセランと官僚たちは)ひとまず俺とティッキーの脅迫的な要請を呑んだ。上流階級の一部には、過去一年のあいだに何度も目撃された、先代皇帝のいささか奇矯なふるまいや帝国制度のゆるみに危機感を抱いていた者もいて、彼らが城壁都市を支持した、という事情もある。そのなかには俺の養父ルーや、アーロンの父ヴォルフすら加わっていた。  これは強引につくりあげた平衡状態だ。これがずっと続くとはまったく思わない。だが今の帝国は骨格を作り直すことに必死で、帝都の生命線を押さえた城壁都市を制圧したり、解放された竜で賑わう辺境を侵攻する余裕は当面ない。  野生化した帝国の竜は不思議なことに間隙を抜ける能力を取り戻し、あちこちに出没して好き放題やっている。急に野生の本能と能力を取り戻し、困惑している竜もいる。そんな状況のなか〈黒〉は辺境の勢力と結託し、帝国とはちがう方法でこの都市が自立するように仕向けるだろう。  神々はこの世界から手を引き、『帝国』はこれまでとおなじようにあることはできない。これからこの世界ではまったく新しいゲームがはじまる。〈地図〉と〈法〉はいまだにこの世界の原理だが、これからは竜というプレイヤーも加わる。これまで人間は道具として竜を使ってきたが、この先はそうはいかないからだ。 「ところでエシュ。自分の後釜として〈黒〉の団長にタキを据えるつもりと聞いたが?」  物見台の縁に身を乗り出してイヒカがいった。 「それはちがう」俺は首をふった。 「地獄耳も今回は誤報を受け取ったな。据えられるのはあんただ」 「――なんだと?」 「俺としてはつもりだけどな。タキは副官だ。あいつは了解済みだし、いい組みあわせだろう? こっちの長老連も賛成してくれたぜ。全員乗り気だ。ユルグまでな」 「まさか、知らぬは私ひとりだけ、と……?」  ぎょっとした表情でこちらを向いた元上官に俺は笑いを堪えきれない。 「断るか?」 「私は……」  イヒカはふっと唇をゆがめたが、やがてそれは俺がかつてよくみかけた、皮肉っぽい微笑みになった。「そうだな。実のところ、面白そうだと思うよ」 「だよな。俺はよくわかっているだろう?」 「きみとアーロンがここまでやってきたのはこのためか」 「理由の半分はそうだ」 「もう半分は?」  俺はドルンの方をみた。「あいつのため」  イヒカは怪訝な目つきになったが、俺はそのままつづけた。 「――と、あいつにくっついている白い竜のためだ。あれは山地で……人間とはちがう世界で育つものだ」 「あの竜に名前をつけないのかね?」  白い竜にはもう名前がある。アニマ・ドラコーという……だが俺はイヒカにそれを話す気になれなかった。ずっとあとになれば話すこともあるかもしれない。炉端の法螺話のようなものになるかもしれないが、あの姿に生まれる前のアニマ・ドラコーについて、この世界から消えた、彼を作った神々について。  だから俺は首をふって「ドルンがあれの親代わりだから」と答えるにとどめた。  イヒカは俺の顔をしげしげと眺めた。 「寂しいだろう?」  俺は肩をすくめた。ドルンと俺はいまだに絆をもっている。アニマ・ドラコーだってたぶん似たようなものだ。 「それほどでも」 「そうかね? ああ、そうか。アーロンがいるから大丈夫か」  あのなあ。俺はイヒカを睨んだが、金髪の男が真面目な目つきでこちらを見返したので拍子抜けした。 「私を〈黒〉の団長に据えて、で、きみとアーロンは?」 「さあ」  俺は肩をすくめる。「どうするかな」  裸の胸と胸が重なり、アーロンの手が上に乗った俺の尻をつかむ。唇をあわせてお互いの吐息をわけあって、これまで数えきれないくらいやったように、舌を絡ませる。俺もアーロンもとっくに昂っていて、お互いの熱を擦りつけながら、相手を喰ってしまう勢いで舌を吸う。アーロンの指が俺の尻をさぐり、侵略を開始する。  久しぶりにこの砦でアーロンと抱きあっているせいか、今日はすこし勝手がちがう気がする。窓から入ってくる山地の風のせいかもしれないし、水が流れる音のせいかもしれない。アーロンと俺に割り当てられた房は温泉のすぐ近くだった。  アーロンはもちろん俺の弱点を知っている。軽く弄られるだけで俺の体はぴくっと跳ね、唇が外れて息がもれる。アーロンはにやっと笑い、俺の顎に垂れた唾液を舌でなめとった。色っぽい目つきに心臓が跳ねた。おいおい、と俺の中にいるシニカルな俺がつぶやく。十四歳から知っている相手なのに、まだそんな調子なのかよ。  悪いか。俺は股間をぴったりあわせ、目を閉じて体をゆする。もともとタイプなんだからしかたない。それに十代のころより、今の方がずっと―― 「エシュ」アーロンがささやく。 「ん?」 「そうやって俺の上に乗っていると……いいな」  アーロンは昔からベッドでは口数が少ない。面と向かっていいといわれたことなんてあっただろうか。思わず動きをとめた俺の腰をアーロンはぎゅっとつかみ、指を増やしてさらなる侵略をはじめた。 「あ、ん、あぅ、ああ……」 「やっぱりいい」  アーロンは俺の尻にオブラを押しこみ、指で中をかきまわす。流れる水音にくわえて卑猥な音も響きはじめ、俺は我慢できなくなる。体をおこしてアーロンの腹にまたがり、尻に濡れた雄をくわえ、ゆっくり体を落としていく。 「ああ……」  アーロンが吐息をもらし、腰をゆるく突き上げた。俺は息を吐きながら尻を上下させ、びりびりと響くような快感の波をとらえる。ああ、たまらない。アーロンとは何年も格闘みたいなセックスをしてきたが、こういうのも悪くない―― 「んっ、あっ、ああっ、あんっ、ん」  アーロンは片手で俺の腰をとらえ、片手でよけいなところをまさぐっていく。乳首からへそ、さらにその下。俺は喘ぎながら突き上げられるままに腰をゆらす。いつしか絶頂に追い上げられ、長く続く快感の波に乗って目を閉じている。あっと思った時は背中をベッドに倒されていた。上に乗った男の体重をうけとめながら足をひらき、背中に手を回す。そのまま揺さぶられて、またも快楽に押し流される。  ふたりとも汗でびっしょりだ。俺たちはお互いの体を乱暴に拭い、並んでシーツにくるまって、黙っている。横をみるとアーロンと目があう。体は心地よく疲労しているが、頭は冴えていた。俺は砦の人間との交渉やイヒカの問いを思い起こす。 「アーロン、イヒカは〈黒〉に戻る」 「承知してくれたか」 「ああ。俺たちはどうするのかと聞かれた」  アーロンの手が俺の頭を撫で、指で髪の房を弄んだ。 「おまえの望みは? エシュ」 「やれることはきっと……たくさんあるな」俺は口から出まかせをいった。 「これから、帝国と城壁都市と辺境のあいだで対立と均衡が繰り返されるだろう。俺たちは全部に関係があって、しかも竜と繋がることもできる。安定のために働くことも、対立を煽ることもできるかもしれない」 「そういうことが望みか?」  アーロンは俺をじっとみつめていた。俺はざわざわとさまよう心が次第に落ち着き、まとまるのを感じた。 「いや」俺は枕の上で頭を揺らす。「せっかく神々の声や手から自由になったんだ。自分の意思で……この世界にとって良いと思うことをやりたい。それだけだ」  アーロンは生真面目な表情でうなずいた。 「賛成だ。俺もそう思う」  俺は腕をのばし、アーロンの肩を引き寄せて頬をこすりつけた。アーロンはまた俺の髪を弄び、くしゃくしゃにかきまわしている。手のひらの感触が心地よかった。俺は行ってしまった神々に心の中で呼びかける。この世界はそんなに悪いものじゃない――そう思えるように、せいぜいこれからがんばってみるさ。

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