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後日談 すべてのものが実るとき 1.エシュー水もしたたるなんとかの
水面を竜の尻尾がバシャン!と叩く。はためには子供が遊んでいるような、無邪気な一撃にみえるかもしれない。だが同時にあがった水しぶきは無邪気どころか、ほとんど悪意の塊だ。
ザッパーン!
俺の髪から水がしたたり落ちる。一瞬にして腰のあたりまでびしょ濡れだ。しかし張本人──張本竜というべきだが──は明後日の方向をむいて澄まし顔。
「ああもう、ツェット! 何しやがるんだ!」
ツェットは俺の怒鳴り声を無視した。誰も背に乗せないまま、翼を斜めに傾けて水面すれすれを飛んでいく。湖の面をすべっていく竜の影は優美だが、俺は湖へ顔をつきだしてツェットをにらみつける。あのやろう、一周したあとでまたひとしぶき、俺に食らわせるつもりじゃないだろうな。
「よっ、水もしたたるいい男!」
背中のところで能天気な声が聞こえる。
「シュウ」
俺は仏頂面でふりむいた。
「楽しそうだな」
「そりゃ、人がずぶぬれにされてんのは面白いよ。でもツェットはどうしたんだ。なんであんなすれすれを飛んでる? 曲芸でも教えてるわけ?」
「まさか。あれはわざとだ」
俺は腰に手をあててツェットを睨む。
「あのやろう、俺を狙ってやってる。いくらエスクーがいないからって……」
「あ、そうか」
シュウが楽しそうに手を打った。
「アーロンは帝都か。エスクーも一緒に行ったから拗ねてるのか」
「拗ねてる?」
俺は思わずくりかえす。
「あれがそんな可愛げのある行動か? どうみてもただのやつあたりだろうが」
「可愛いじゃないか」
シュウはぬけぬけといった。
「好きな竜が留守だから寂しがってるんだろ? エシュは?」
「俺?」
「アーロンがいないと寂しいんじゃないかって──あ、エシュ!」
俺の目をみたシュウが大袈裟に叫んだ。
「首を振るな、近寄るなよ! 水が僕にまで飛ぶだろ!」
「あいにく俺は水もしたたるいい男でね」
俺は負けじと大袈裟に頭を振る。水に濡れた竜が体をふるわせるときを想像してやると、水滴が面白いほどの勢いでシュウめがけて飛んでいった。なるほど、濡れたあとにブルブルしている竜どもの気分がわかる。腹いせにはちょうどいい。
「まったく、人も竜も似た者同士──」
シュウがそういったとき、戻ってきたツェットがまた水面を尻尾で叩いた。大きく上がった水しぶきが今度はシュウもずぶ濡れにする。
「ツェット!」
さっきの俺そっくりの口調でシュウが怒鳴った。
「僕まで濡らすな!」
「ひとこと多かったな」
ムッとした表情のシュウの前で俺は笑いをこらえきれない。ツェットはまたも澄まし顔で湖の上を飛んでいる。
シュウがタオルを投げてよこしたので、俺は髪からしたたる水をぬぐった。俺たちがいるのは湖沼地帯だ。春先の今は一年でいちばん快適かもしれない。夏は水面からあがる湿気でかなり不快な気候になるからだ。
「アーロンはいつ戻る?」
俺とおなじく、タオルでしずくを拭いながらシュウがたずねた。
「さっき連絡があって、明日には戻るとさ。試料は手に入れられるそうだ」
「お、意外に早いね。助かる」
「交渉相手は皇帝府だ。だからアーロンに行ってもらった。俺が行くよりずっといい。それにエスクーがいちばん速い」
「それでツェットが拗ねてるんだろう。エシュが湖に落とすから」
俺たちがここにいるのは、いまこの世界で新しく生まれている野生竜と、地図化されていた帝国竜の差異を調べるためだ。湖沼地帯にはこの一年のあいだに野生竜の新しい孵化場ができ、今は孵化シーズン真っ最中である。
シュウは今〈黒〉の技術顧問という気楽な立場で、標本の採取や実験のために辺境の砦と城壁都市をいったりきたりしている。俺とアーロンは帝国内を気ままにうろついているが、今回はシュウが手伝ってくれと誘ってきた。いつもはフィルが助手さながらにシュウの世話をやいているのだが、今回は都合がつかなかったらしい。
一度地図化をリセットされた帝国の竜たちは、大部分はまた帝国軍に訓練されて飼われているが、一部は逃げ出して辺境の野生竜の群れに加わっている。地図化されていた当時の竜の試料は帝国の研究所が保管していた。皇帝譲位後の混乱に紛れてシュウが一部をくすねていたので、今回はそれを使うはずだった。俺が湖に落とさなければ、の話だ。
俺は肩をすくめた。
「人は失敗するものさ」
シュウはわざとらしい笑顔でニヤニヤする。
「でも竜は容赦しない」
「まったく、すぐ戻って来るってのに」
「それをツェットにいってやればいいだろ」
「だめだ、そんなことしたら今度はつけあがる──」
ふと気配を感じて俺はふりむいた。湖の中央でツェットが急旋回するのがみえた。
「シュウ、走れ」
「え?」
「急げって!」
俺たちは走って湖畔を離れた。ツェットの翼が大きく羽ばたき、水面をびしびしと叩いていく。
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