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後日談 すべてのものが実るとき 2.タキ―食わせ者たちの休日

 城壁都市を掌握する〈黒〉の副官、タキの朝は、夜明けとともに寝床を抜け出し、厩舎の止まり木にぶらさがる竜たちを確かめることにはじまる。  生まれた時から竜と共に暮らしていたタキにとってこれは当たり前のことだった。住んでいるのがどこだろうが、これは竜乗りの体にしみついている。潜伏中の帝都でも辺境の砦でも、戦闘中でないかぎりタキの朝はいつも同じだ。  現在の厩舎は城壁都市の高層部にあり、これは崖っぷちのように張り出している最上部の飛翔台のすぐ近くだ。厩舎も飛翔台も、高所が苦手な人間には悪夢のような場所かもしれないが、竜はひらけた視界を好むし、タキには何の問題もない。 〈黒〉の竜はみなタキを覚えている。近づくと羽根をさらさら揺らしたり、クウクウと唸り声をあげて迎える。きまった乗り手以外の竜があっさりタキに慣れるのをみても〈黒〉の連中は驚かなかった。「エシュと同じか。副官にはもってこいだな」といっただけだ。  タキにとって、エシュ──生き別れになったあげく帝国軍人になっていた幼馴染と同じといわれるのは、多少複雑な気分になることでもあった。何しろ相手は、共に暮らしていた子供のときから、風と竜の気分を読むことにかけて抜群の才能を発揮していた男だ。しかも今は竜と直接感覚をつなげるという、さらなる異能を獲得しているらしい。  あいにくタキにそんな力はない。とはいえ辺境の竜乗りでは腕がたつほうで、竜の気分もかなり読める。世界の(ことわり)が変化した今、一日のはじまりを竜の唸り声で迎えるのは、タキにとって心安らぐことだった。  しかし人間同士となると、心安らぐことばかりでもない。  厩舎を出てシャワーを浴び、タキはもう一度自室への通路をたどった。今日は非番、つまり休日だ。だが〈黒〉の副官となった今は、竜と同じく確かめなくてはならないことがある。  タキは自室の前を通りすぎ、突き当りのドアの前に立つ。三回叩き、しばし待った。返事はない。  ノブに手をかけたとたん、かちりと鍵がひらいた。イヒカはドアロックを弄り、タキの掌紋に反応するよう変えたのだ。 「まったく、いつまで寝てるんだ?」  ずかずかと室内に入ると奥のカーテンを開け、ベッドに向かっていいはなつ。細長い毛布のかたまりからかぼそい声が漏れた。 「やあ、おはよう──きみが来てくれるのを待っていた」  タキは両手を腰にあて、毛布のあいだからこぼれた金髪を見下ろした。 「子どもじゃないんだから、いいかげんひとりで起きろ」 「なんだって……」  年上の男はかすれた声でいった。 「ずいぶん薄情だな。昨夜はあんなに私を弄んだくせに」 「嘘つけ。あんたが誘ったんだろ」 「いや、誘ったのはきみだ」 「あんただよ」  売り言葉に買い言葉。といっても、どちらもまったく険悪ではない。似たようなやりとりを何回も交わして、今では挨拶も同然である。タキはベッドに尻をのせ、イヒカの金髪をのぞきこんだ。 「今日は非番なんだ。さっさと起きろ」  イヒカは眩しそうに目を細めた。 「逆じゃないか。休日はのんびりするものだろう──いや、きみはもう竜を見に行ったのか。連中、調子はどうだね?」 「まあまあだ」  だるそうにあくびをして、イヒカは体を起こした。寝間着のボタンはすべて留まっていたが、ひとつずつ掛けちがっている。イヒカは片手で右膝をさすりはじめ、そのとたんタキの脳裏には昨夜この男を組み敷いていたときの情景がよみがえった。昨日は膝を揉んでやるうちに、いつしか体をつなぐ行為に突入してしまったのだ。  どうも最近、こういうことが多い。  タキとしてはイヒカに深い気持ちを抱いている自覚はなく、〈黒〉の長がベッドに連れこむのは自分でなくてもいいはずだと思っている。辺境の砦で最初に関係をもったときも、帝国の凶悪な竜から息をひそめる緊張を和らげるためにセックスしたにすぎなかった。  辺境の人間は帝国とはちがう倫理で生きているから、べつに珍しいことでもない。当時のイヒカは砦の特殊な「客人」で、タキは監視役だった。イヒカがエシュの上官だったと知ったとき、タキはなぜか呆れたものである。  子供のころ暮らしていた谷で、エシュはある時期までもっともタキに近い人間だった。エシュの父親が死んだあと、彼をずっと抱きしめていたのはタキで、最初に体を重ねたのもエシュだった。  だが同時にエシュにはひどく理解しがたい部分があった。ときおり彼が話す「生まれる前の世界の話」はタキにはほとんど意味がわからなかった。エシュはやがて谷でいちばんの変わり者とみなされるようになり、タキとのあいだにも自然と距離ができた。  だが変わり者というならイヒカも相当なものだ。世界の|理《ことわり》が変化したいま、またも変わり者につきあっている自分は何なのか。そんなことを思いながらタキは膝をさするイヒカの手をつかむ。 「なんだね?」 「動くな」  寝間着のボタンを外しはじめると、イヒカは困ったように眉をあげた。 「きみはさっさと起きろといわなかったかね?」 「俺はこういうのは嫌なんだ」  外したボタンを正しく留めなおしはじめると、イヒカはクックッと低い声で笑いはじめる。 「イヒカ、動くなといっただろう」 「動いてやしないさ! それにしてもきみは面倒見がいいな。前の副官とは大違いだ」  タキは鼻を鳴らした。「当たり前だ。俺はエシュじゃない」  イヒカは顔のまわりに垂れた金髪をかきあげる。 「せっかく留めてくれたのだし、今日は休日だ。礼のひとつもしようか?」 「あんたの超絶技巧はもう知ってる。今はいい」 「なんだ、つれない──」  と、その時だった。室内に断続的な警報が響きわたる。 『竜の群れが出現、竜の群れが出現! 〈萌黄〉のコールサインを確認、騎乗者はなし、騎乗者はなし!』  放送をきいたとたん、イヒカの背筋がすっと伸びた。 「萌黄の竜が間隙を超えたのか。やれやれ、せっかくの休日だというのに。どうしようかね。ドルンがいれば一喝してもらうんだが」 「あきらめろ」  タキはもう立ち上がっていた。 「竜に関しては、楽をしようってのは根本から間違いだ。帝都に帰らせるしかない」 「仕方ないね。頼むよ。私は野生竜を率いて飛ぶなんて無理だ」 「ふたりいれば十分だ。シンを連れて行こう。竜に対する勘は俺よりずば抜けてる」 「砦の出身者はまことに心強いな。任せるとも、副官」  イヒカは身支度をはじめたが、タキは先に部屋を出る。窓の外で、間隙から突然あらわれた竜の群れが赤ん坊のように泣きわめいている。

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