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後日談 すべてのものが実るとき 3.セラン―新しい革袋に新しい酒を

 執務室の机に向かい、セラン・ジリアン・ラングニョールはひたすらペンを走らせていた。早朝に皇帝府へおもむき、執務室で書類に向かうのが彼の一日のはじまりである。日中は会議や折衝にあけくれ、夕刻以降はまた執務室にこもる。式典などに出席したついでに社交の場に出ることもあるが、これもセランの仕事の一部だ。  運ばれる書類の山は片づけても片づけても減らない。しかしセランが根をあげるところを周囲の誰ひとりみたことはない。  直接会った者たちには「息を飲むような」と形容される鋭い美貌や細身の体に似あわず、セランは頑健で辛抱づよく、人に頼ることを嫌った。これは士官学校での訓練と行政官のキャリアのあいだに培われたものでもあるし、アーロンと同等になりたいという意思の賜物でもあった。  新皇帝をいただく今の帝国で、セランはもっとも重要な人物のひとりだ。あらたに設置された皇帝府、その円卓会議の一員として、まだ年若い皇帝の摂政として、膨大な政務をこなす毎日である。怜悧な美貌は直属の部下をはじめ、多数の人々を魅了しているが、セランと直接かかわった者は、本人は自分の容貌を鼻にかけないどころか、逆に無用と思っていることに気づき、驚く。  もっとも、先帝の〈使者〉を務めていた頃のセランはこんな人間ではなかった──と、少年時代から今に至る彼を知っている者ならいっただろう。しかしそれを覚えている者は今の皇帝府に数人もいない。  先帝は長い治世の末期、ホムンクルスの妖しい技に執着し、それまでに築き上げた偉大な功績を汚してしまった。現皇帝への譲位は帝国史上類をみない災厄のさなかに行われ、それから帝国にはさまざまな変革が起きたが、セラン・ジリアン・ラングニョールという人物もどこかの時点で変わったのだった。  最後の決済書類に署名をし、ペンを置く。やっと執務室を出たセランは、廊下に立って小首をかしげた。いつもならまだ静かな時間のはずなのに、慌ただしい空気が漂っている。 「何かありましたか?」  小走りにこちらへ歩いてきた秘書官に声をかけると、相手は直立不動になり、両脇にぴしりと指先をそろえた。 「〈萌黄〉の竜がそろって厩舎から消えたとの報告がありました。|間隙《かんげき》を抜けて城壁都市付近にあらわれたとのことです」 「また竜ですか」  セランはほんのわずか眉をあげた。〈地図〉による支配がなくなった軍の竜は、いまでは辺境の野生竜と変わらない。それでも長年人間に飼われ訓練されてきただけあって、人の命令を聞きはする。竜は知能が高いのだ。  困るのはこれらの竜が間隙を超える能力を取り戻し、何らかのきっかけで大脱走をはかることだった。学者は何が間隙を飛ぶ引き金になるのか研究を進めているが、いまだに理由はわからない。人は間隙を超えられないので、騎乗者も振り落とされてしまう。  とはいえひとりだけ、間隙を超えた人間の噂はあるのだが──セランはまばたきして思考を切り替える。間隙を超えたと噂される者はセランにとって苦い塊のようなもので、彼のことは思い出さないようにしている。  秘書官は首の通信機に手をやった。 「報告が入りました。〈黒〉の副官、タキが群れをまとめ、城壁都市から向かっているとのことです」 〈黒〉と聞いたとたん内心どきりとしたが、セランの表情には出なかった。 「そうですか。一般人に被害は出ていませんね?」 「〈萌黄〉の厩舎を一部損壊したようですが、一般住民に影響はありません」 「状況が急変したらすぐ報告してください。僕は陛下にご挨拶に行きます。朝食をとりに一度戻るので、執務室に運んでいただけますか」 「はっ」  深く礼をする秘書官をその場に置き、セランは皇帝陛下の元へむかう。皇帝はまだ少年だ。今は円卓会議の決定を形式的に承認するだけの政務しかなく、責任も免除されている。  セランは皇帝のお気に入りだ。皇帝はセランを齢の離れた兄のように慕っていて──人によっては崇拝されている、ともいうが──セランも皇帝のことは大切に思っている。先帝のようなあやまちをしてほしくない、狂った熱情を抱いてほしくない、というのが現皇帝へのセランの願いだ。  少年の頃からのアーロンへの思慕やそのあとの様々な情念──そこには嫉妬や憎悪も含まれる──を今のセランは冷静に分析するようになっている。今のセランにとってアーロンとエシュの名は乾いた傷跡のようなものだ。ときおり心をひっかいたり、むずがゆくさせる。忙しい日々に埋もれていれば、くだらない感情に気を取られなくてすむ。  皇帝の元を辞して、セランはまた執務室へ向かった。忠実な秘書官が朝食を用意しているはずだ。廊下を歩きながら何気なく窓の外をみたとき、空に黒い点がいくつも動くのがみえた。  竜か。脱走した騎乗竜が戻ってきたのだろう。  群れで脱走するのは珍しい。厩舎がからっぽになって〈萌黄〉は半狂乱だったはずだ。セランは珍しく好奇心にかられた。屋上へ行けばもっとよくみえるかもしれないと、手近な階段をのぼる。  執務棟の屋上からは皇帝府中央の尖塔がよくみえる。背中に垂らしたままの長い髪が風になびいた。セランは顔にまとわりついた毛束を耳のうしろに流す。  午前の太陽に照らされる帝都は美しかった。皇帝府の前庭には春の花が咲き乱れ、空気にもかすかに甘い香りがする。竜もこの風に誘われたのだろうか。セランもかつて、士官学校で竜に乗る訓練を受けた。得意とはいえなかったが、竜の背からみた地平線はいまもはっきり覚えている。  空の黒い点がだんだん大きくなり、はっきりみえるようになった。二頭の竜を先頭に、ひし形の隊列をなして群れが飛んでくる。竜の群れを帝都でみることはめったにないから、皇帝陛下もごらんになったら喜ばれたかもしれない──そう思った時だった。ひし形の辺から糸を抜くように、一頭の竜がひょろりと抜け出た。  群れから外れる者はどこにでもいるものだ。セランは冷静にそう思った。群れから外れたその竜が、皇帝府に──いや、自分に向かって飛んでいると気づくまで。  自覚した時はもう遅かった。セランは竜の眼を真正面からみつめていたからだ。  かつて士官学校で、セランはうかつに竜と視線をかわさないことを学んだはずだった。慣れない者は竜の眼をみてはいけない。だがまさか、空を飛んでいる竜が自分を|見《・》|る《・》ことができるとは──視線をあわせてしまえるとは思いもしなかった。  竜に睨まれると動けなくなるというのはただの伝説ではない。セランの目は竜を追い、足はまるで根が生えたように動かない。理性は早くこの場を離れろと命じるのに、体がいうことをきかないのだ。いまや近づいてくる竜の細部まで、セランの目にはっきりみえた。とさか、うろこ、眸の中央の金の光彩──そして翼が羽ばたく音と、影──  キイイイイ!  耳をつんざくような声で竜が啼いた。ふいに足をすくわれるように膝が折れ、体が宙に浮いた気がした。視界が影に覆われ、何もみえない。何が起きたのか、セランにはわからなかった。僕は竜に襲われたのか?  と、そのとき別の音が響いた。  ピイイイイ──  笛の音だ。竜笛。人間の耳には単純な音にしか聞こえないが、竜にはさまざまな意味をもつ音階を奏でる。 「大丈夫ですか?」  耳元で声がする。セランは誰かの腕に抱えられていた。ぎゅっとつぶっていた目をあけると、ずっと下に皇帝府の尖塔がある。  まさか、空を飛んでいるのか。 「すみません、群れをまとめきれず──すぐに降ります」  声の主をセランは見上げ、相手の厚い胸板にしがみついていることに気づいた。 「そのまま掴んでいてください。ひとり用の鞍なので」 「あんなところにいてすまなかった」 「まさか、竜のせいです。あなたのせいじゃない」  まもなく降り立ったのは皇帝府にほど近い飛翔台だった。助けてくれた男の竜がおとなしく飛翔台にうずくまると、セランは転がるようにその背を下りた。 「ありがとう。申し訳なかった」  まだ竜の背にいる男にむかっていう。セランを見返した顔はまだ若かった。 「怪我はありませんよね?」 「ああ。その……あとでお礼を」  男は子供のように顔をくずし、微笑んだ。 「そんなことされたら上官に怒られます」 「きみの名前は? 僕はセラン」 「〈黒〉のシンです」  男がそういったとき、目があった。琥珀色の眸をセランはみつめた。まるで竜の眼のようだ。なぜかそう思い、怖くなった。これが竜の眼なら、僕はまた射止められ、動けなくなる。 「セラン殿、お助けできてよかった」  シンの声が緊張をやぶった。 「じゃ、俺は帰ります。離れて」 「あ、ああ……」  セランは数歩あとずさった。シンは鞍に座りなおし、ハーネスを握った。竜が首をのばし、さえずるように啼く。翼がばさりと広がった。  飛び立った竜が遠い空へ羽ばたくのをセランは地上からみつめていた。男の微笑みと名前が脳裏で何度もこだまする。

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