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第156話 見えない糸8
ひと目姿を見ただけで、心があんなにもぐらついた。距離を置こうと必死に頑張ってきた時間が決意が、木っ端微塵に砕け散った。
こんなのは普通じゃない。
こんな激しい感情は尋常じゃない。
自分では抑えの効かない狂おしい想いは、恋なんて生易しい名前では呼べない。
会えば、近づきたいと思う。
近づけば、触れてみたいと思う。
そして触れてしまえば……欲しいと思ってしまう。彼の、全てが。
自分と彼を隔てる大きな壁を、壊したくなる。
彼が、欲しい。
心も、身体も。
「おかしくなっちゃえば、いいよ」
不意に瑞希が、ヒヤリとした声で囁いた。
「祥悟さんが、欲しいんでしょ? 好きで好きでどうしようもないんでしょ? 智くんさっき、まるで祥悟さんを絞め殺しそうな目、してた」
「瑞希、くん……」
「だったら、手に入れちゃえばいいのに。好きだって言って、奪っちゃえばいいのに」
「よせっ瑞希く」
「怖がって何も言えないだけだよね。言わなきゃ、何も伝わらないよ。智くん、後悔する。本当に会えなくなった時に、絶対に後悔するよ」
瑞希の目から溢れた涙が、つーっと頬に伝い落ちる。智也は息をのんで、反論の言葉を失った。
「想いは、言葉にしなければ絶対に伝わらない。してしまった後悔よりも、しなかった後悔の方が、ずっとずっと、苦しいんだよ。痛いんだよ」
智也はくしゃっと顔を歪め、瑞希の身体を掴んでぐいっと抱き寄せた。
淡々と流す彼の涙が、まるで血の色のように見えた。淡々と呟く彼の言葉が、氷のように突き刺さってくる。
明るくて素直で優しい瑞希の、普段は見せない大人びた涙。その瞳に宿る深い慟哭に、かける言葉が見つからない。
「ねえ、智くん。智くんは、後悔しないでよ。このまま諦めたり、しないで? 僕みたいに、ならないでよ。お願いだから」
しゃくりあげる瑞希の背中を、とんとんと優しく叩いた。瑞希の微かな震えが、密着した身体から伝わってくる。
「無理だよ、俺は、祥を、奪えない」
情けない涙声が、自分の口から溢れ出る。
「言えないなら、僕が言う」
「それはっダメだっ瑞希くん、俺は」
「お取り込み中、悪いんだけどさ」
不意に、後ろから声がした。
智也はドキッとして振り返る。
ドアを手で押さえ、首を傾げた冷ややかな瞳で自分を見つめる祥悟と、目が合った。
「そこ。邪魔なんだよね。どけてくれる?」
「……祥」
智也は慌てて瑞希の身体を離して、近づいてくる祥悟に道をあけた。
細い眉を片方だけあげた祥悟が、侮蔑の笑みを浮かべたまま、横を通り抜けていく。
「祥悟さん、あの、違うんです、僕」
瑞希が悲鳴のような声をあげた。その声に祥悟は立ち止まり、瑞希の方へ振り返る。
「違うって何が? 邪魔だからどけてって、言っただけだけど?」
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