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第208話 濡れて艷めく秋の日に35
あの時、祥悟からの留守電を聴かなかったら、あのまま自分は瑞希を抱いていたのだろうか。
あんな寂しくてせつないだけの気持ちで、身体だけの関係を持ってしまったのだろうか。
あの時、声が聴こえたのだ。
祥悟からの声が。
本人は知る由もないだろうが、あやまちをおかそうとしていた自分を、祥悟は引き戻してくれた。
信じられないような絶妙なタイミングで。
智也は唇を噛み締め、滲みそうになる涙を瞬きで散らした。
あの時、自暴自棄に瑞希を抱かなくてよかった。
自分の為だけじゃない。瑞希の為にも。
「祥……」
智也は散らしきれなかった涙を袖口でグイッと拭って、オリーブオイルを手にキッチンを後にした。
ドアを開けて、静かにベッドに歩み寄る。
祥悟は布団のこちら側を捲りあげたままで、横向きに少し丸くなり、すよすよと寝息をたてていた。
智也はその可愛らしい寝顔を、見下ろしながら思わず微笑んでいた。
「ふふ。酷いなぁ…祥。君から誘ったくせに、もう眠ってしまったのかい?」
祥悟には聴こえない位の小さな声で、そっと囁いてみる。
念の為にオイルを取りには行ったが、正直、これを本当に使おうとは思っていなかった。ただ、祥悟がどうしてもと望んだ時に、彼を傷つけたくなかっただけだ。
瓶をサイドテーブルに置いて、スプリングが揺れないように、慎重にベッドに腰をおろす。
祥悟はぐっすりと寝入っていてピクリともしない。
智也はそろそろと手を伸ばすと、祥悟の髪の毛に触れた。
胸のずっと奥の方から、痛いくらいの愛おしさが込み上げてくる。
今日はさんざん、この気まぐれ仔猫に振り回された気がする。
でも、会えてよかった。
こんな風にまた、彼の傍にいられることがしみじみと幸せだった。
指先で、柔らかい癖っ毛をいじっていると、不意に祥悟が身じろぎして、むにゃむにゃと何か呟いた。
智也は手を止めて、彼の顔をじっと見守る。
目は覚まさなかった。
そのまままた静かに寝息をたて始める。
「祥。大好きだよ……。もうしばらくは、側にいさせてね。君が望まないことは、絶対にしないから」
智也は小さく囁くと、身を屈めて祥悟の額に優しいキスを落とした。
※「濡れて艷めく秋の日に」ーendー
次章は「秋艶」です。
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