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第248話 秋艶37

控え室奥の洗面台で、しつこく何度も歯を磨きうがいをした。 ……気持ち悪い……。吐きそうだ。 もうすぐ休憩時間が終わる。それまでに何とか立ち直らないと。 舌の侵入は意地でも阻止した。 でも押し付けられた唇の感触が、なかなか消えない。あの男が付けていたオーデトワレの匂いが、いつまでも鼻にまとわりついて……気分が悪い。 智也は顔をあげ、鏡の中の青ざめた自分を情けない気持ちでじっと見つめた。 あいつはボイスレコーダーの音を聞かせていない。たぶん、はったりなのだ。 昨日、城嶋が盗聴器を仕掛ける機会があったのは、リビングダイニングだけだ。もしソファーに仕掛けたのだとしたら、自分と祥悟の睦言など録音出来たはずがない。昨夜も今朝も、あそこではキスなどしていないのだから。 記憶を辿ってみても、祥悟と危うい会話をあそこでした覚えはなかった。 だが、城嶋は危険な存在だ。 祥悟が昨夜脅した内容は、きっとあいつにとって致命傷だったのだ。絶対に触れてはいけないことだった。だからこんな強引な手段をとってきたのだ。 だとしたら、下手に追い詰めると、あの男は祥悟に何をするか分からない。 智也としては、城嶋に深く関わりたくはなかった。 だが、祥悟だけは何としても守りたい。 あんな卑劣な男の罠にはまって、彼の評判に傷をつけるなんて、絶対に許せない。 城嶋が今夜、自分にどんな要求をしてくるかは想像がつく。もちろん、容易く応じる気はない。 ただ、出来れば祥悟を守る為に、あの男の情報を出来るだけ多く握っておきたい。城嶋の脅しにかかったフリをして、その本当の目的がどこにあるのか探っておきたいのだ。そして…… 「しっかりしろよ。祥を守るのは俺の役目だ」 小声で自分に言い聞かせると、時計に目をやった。 あと10分ほどで休憩は終わりだ。 ドアがノックされた。智也はハッとして振り返り、表情を引き締めてドアに向かった。 さっき城嶋が出て行った後、鍵をかけていた。 「はい」 ドアの前で返事をすると 「俺」 祥悟の声だ。智也は急いで鍵を外してドアを開けた。途端にぽふんっと抱きつかれた。びっくりして、その身体をぐいっと抱き寄せると、廊下を素早く確認してからドアを閉める。 「祥、どうしたの」 「休憩時間、あと20分延長な」 「え。そうなの?」 「ん。だって俺だけ休めてねーもん。今、打ち合わせ終わったし」 腕の中の祥悟が顔をあげる。その頬が不機嫌そうにぷくっとふくらんでいた。 気持ち悪さが一気に吹き飛ぶ。 智也は思わず頬をゆるませ、抱き締める腕の力を少しだけ強くした。祥悟に触れている所から、自分が浄化されていく気がした。 「そうか。お疲れさま」 「んー。なんか甘いもんある?」 「あるよ。おいで」 最後にぎゅっとしてから、腕をほどく。 祥悟はあっさりと離れて、すたすたと奥のソファーに向かった。智也は自分で用意していた彼のお気に入りのスイーツと紅茶のペットボトルを手に、後を追った。 「飲み物はこれでいい?」 「うん。さんきゅ」 祥悟は差し出したペットボトルを受け取ると、隣に座れと手招きした。 さっきまでの暗い気持ちが、すっかり消し飛んで心が浮き立つ。 祥悟はやっぱり天使なのだ。 自分をこんなにも幸せな気持ちにしてくれる。 ……あんな男の策略に、祥悟を穢されてたまるか。君は絶対に、俺が守る。 祥悟の隣に腰をおろしながら、智也は内心、決意を新たにしていた。

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