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第258話 秋艶45
……疲れた……。
流しのタクシーを拾ってマンションに帰ると、智也は上着を椅子の背もたれに引っ掛けて、ソファーにドサッとへたりこんだ。
慣れないことは本当にするものじゃない。
肩を落として項垂れると、城嶋がつけていたオーデトワレのキツい匂いがした。
移り香だ。
智也は顔を歪めた。
ねっとりと絡みつくような視線。
まとわりつくような声音。
「まさかだよな……」
こんな馬鹿みたいな目に遭うとは思わなかった。
智也はくんくんと自分の腕の匂いを嗅いで、顔を顰めると、のろのろと立ち上がった。
心身ともに疲労困憊だが、城嶋と過ごした悪夢の時間の名残りを、シャワーで洗い流してしまいたい。
怠い身体に鞭打ってどうにかシャワーを浴びると、精神的な疲れは幾分ましになっていた。
冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、キッチンに立ったままグイッとあおる。
明日は幸いオフだ。気分が落ち着くと急に空腹を覚えて、智也は酒のツマミを簡単に作り始めた。
とりあえず明後日にでも事務所に行って、城嶋の件を社長に相談しよう。それとは別に、こういうトラブルに詳しいモデル仲間の1人にも、個人的に相談出来る場所を教えてもらうつもりでいた。
作ったツマミを皿にのせて、ダイニングテーブルに移動する。腰をおろそうとした時、携帯電話が上着のポケットで振動しているのに気づいた。
慌てて取り出し画面を見ると
……祥だ。
「も、もしもしっ?」
『 ……智也?なに、どうした』
「え。何が?」
『聞いてんの、俺。なんか焦ったような声出したし』
……あ……。
たしかに咳込んで縋るような声が出てしまった。
嬉しかったのだ。今このタイミングで、誰よりも声が聞きたかった相手だ。
「いや。何でもないよ。今ちょうどビールを飲んでたからね、咳込んだだけだ」
落ち着け、と、自分に言い聞かせながら、出来るだけ穏やかに答える。
『ふーん。そっか……。で?俺になんか用? 』
「え?いや……君がかけてきたんだよ」
『そうじゃなくてさ。2時間前ぐらいに、そっちからかけてきたじゃん』
……え?
2時間前にこちらから?
いや、覚えがない。
「いや、俺はかけてないよ、祥」
『嘘つけ。履歴残ってるし。確かめてみろよ。いったん切るからさ』
そう言って、唐突に電話は切れた。
智也は唖然として、携帯電話をじっと見つめる。
……あ。履歴か。
急いで発信履歴を確認してみた。
たしかに、2時間前に自分から彼にかけている。
智也は首を傾げた。
……2時間前?……あっ……。
その時間、自分は城嶋とホテルにいた。
でも、自分で祥悟にかけた覚えはやはりない。
おそらく、何かの拍子にポケットに入っていた携帯電話の、リダイヤルボタンを押してしまったのだ。
再び、携帯電話が着信を告げる。
「もしもし?」
『履歴、あったろ?』
「うん。たぶん、押し間違いだ」
『そっか。じゃ、何かあったわけじゃねえのな?』
何かあった。大ありだ。
ものすごく嫌なことがあったんだ。
だから、君の声が無性に聴きたかった。
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