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第269話 秋艶56
智也は控え室を避けて、非常階段へのドアを開けた。
外の空気を吸って、とにかくこののぼせた頭と心を冷やしたい。
細い階段をあがって屋上に出る。
人影はない。
ほっとして、貯水タンクの脇の小さな階段に向かい、どさっと腰をおろした。
「はぁぁ……」
複雑な自分の感情を持て余して、深いため息が出る。
祥悟が好きだ。モデルとしての彼の才能に憧れているし尊敬している。そして、仕事の時には見せない彼の素の姿も、大好きだ。自分でも馬鹿なんじゃないかと思うほど、彼の全てが愛しくてならない。
この胸の中の嫌なもやもやは、祥悟に向けられた…というより、自分自身に対しての不甲斐なさだ。
それはきっと、城嶋のことが無関係じゃない。
この間から自分は、祥悟に助けられてばかりいる。そのことがどうにも情けなくて悔しい。
せめて仕事の上では、相手役に自分を選んでよかったと彼に思ってもらいたいのに、さっきの醜態だ。
今まで積んできた経験値が、まったく活かされていない。
情けないにも程がある。
祥悟はあまり他のモデルとの共演を好まないから、単独での仕事が多い。だが、以前から何度か、噂を聞いたことがある。
祥悟は単独よりも相手役がいた方が、面白い絵が撮れる、と。
その相手の存在感を完全に消してしまうか、これまでにない一面を引き出して、本人も周りも唖然とさせる。ほとんどの相手役は女性だが、同性の場合は祥悟の圧倒的な存在感とオーラにのまれてしまうことが多いらしい。
関係者やスタッフから聞かされるその類の噂を、智也自身は体験したこともその現場を見たこともなかった。
さっきはそれを、まざまざと見せつけられたのだ。
これまで自分がコツコツと積み上げてきたキャリアと個性。それを根本からぐらつかせ、一度全て壊される。
抗えない力で、色を塗り替えられる。
自分の奥深くに無意識に眠っている何かを、暴かれて引き摺り出される。あんな体験は初めてだった。
それは一種の恐怖に近い。
渦中にいた時は、何が何だか分からなかったが、魔法が解けた後の疲労感と脱力感は凄まじかった。
壊されて再構築された自分。
もう元には戻れない。
それをいとも簡単にやってしまう彼への、尊敬と畏怖。
祥悟が好きだ。
憧れている。
だが、どうにも複雑なのだ。
彼に、助けられてばかりいる自分が。
対等に隣に並べない自分が。
そして、こんな感情を抱いてしまう自分の心が何よりも情けなくてもどかしい。
「はぁぁ……」
智也はまた、深いため息をついて空を見上げた。
「いつもと逆じゃん」
下から声がする。智也は目を開けて、階段の下を見下ろした。
「祥……」
目が合うと、祥悟は首をきゅっと竦めてみせた。
「まさかおまえここだって思わねえからさ、あちこち探したんだけど?」
「ああ……ごめん。もう、時間かな」
「いや。まだちょっとあるし」
祥悟は言いながら、カンカンと軽い音を立てて階段をのぼってくる。自分より2段下で立ち止まると腰をおろした。
「何してた?ここで」
「うん……。空をね、見ていた」
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