280 / 349

第280話 秋艶67

ひゅーひゅーと祥悟の喉が鳴く。 苦しそうで可哀想で、せめて震えだけでも止めてやりたくて、智也は必死に彼を抱き締めていた。 胸に埋めた彼の顔は見えない。 ただ、幼い表情で恐怖を張り付かせて、泣いているのだということはわかる。 救急車は呼べなかった。 祥悟は絶対にそれを望んでいない。 恐らくは泣いている顔を、他の誰にも見られたくないだろう。 涙声で絞り出した「お願い、だから」という彼の声が、耳にこびりついて離れない。 あんな目をしてあんな哀しげに、それでも必死に訴えてきたのだ。 「祥……祥……」 自分の呼びかけが聴こえたのか、不意に祥悟が顔をあげた。真っ赤な目からぽろぽろと涙を零し、視線をうろうろと彷徨わせている。真っ直ぐに彼を見つめているのに、視線が合わない。 智也は胸を締め付けられる思いで、彼の頬をそっとそーっと撫でた。零れ落ちる涙が、温かく指先を濡らす。 「祥……」 祥悟が震える唇で何か呟いた。でもそれは、声にならない。吐き出したいのに吐き出せないのか。 「祥」 名前を呼ぶことしか出来ないのがもどかしい。 祥悟の唇が再び動いた。 漏れ出る息が「かあさん」と微かに音になる。 続けて聴こえた「りさ」という言葉。 苦しそうにぎゅっと顔を歪め、祥悟はまた胸に顔を埋めてしまった。 智也は滲む涙を抑えきれなかった。 この暗闇を宿したような虚ろな瞳で、祥悟は過去の苦しみの幻影を見ているのだろうか。 やはり最後の撮影は延期するべきだった。 祥悟がどれほど言い張っても、何としてもやめさせるべきだったのだ。 彼は今までみせたことのない憔悴を、自分に示してくれていたのだから。 ……ごめんね、祥。ごめん。俺が気をつけてやればよかったよね。 智也は込み上げてくる涙を堪えながら、祥悟の頭を優しく何度も撫で続けた。 「智也……」 胸の中で、祥悟が自分の名を呼ぶ。 智也は少し腕の力をゆるめて、祥悟の顔を恐る恐る覗き込んだ。 泣き腫らして目が真っ赤だ。 涙の跡が痛々しい。 だが、虚ろな瞳には生気が戻り、いつも通りの眼差しを取り戻していた。 「大丈夫?おさまった?」 「ん……ごめん……」 智也は彼の柔らかい髪をそっと撫でながら微笑んだ。 「謝らなくていいんだ。苦しかったよね」 「……みんなは……?」 「さっき監督が心配して様子を見に来てくれたよ。スタッフは先に帰してもらった。残っているのは俺たちだけだ」 「撮影、どうなった?最後まで、撮れてた?」 智也は驚いて目を見張り 「覚えてないの?大丈夫。無事に撮り終えたよ」 「……そっか…」 祥悟は目を伏せ小さくため息をついた。 「途中から記憶ねえの。最後のやつとか、全然覚えてねえし」 そんな風には少しも見えなかった。ポーズを変える時も普段とまったく変わらない様子で、独特のオーラを放ってさえいたのに。 「午後の撮影はやっぱり延期すればよかったな。君の体調が良くないことは分かっていたんだから」 「や。最後までいけたんならさ、あれでよかったんだ。たぶん、別の日に撮り直してもおんなじことになったし」 「え……?」 智也が首を傾げて聞き返すと、祥悟はちらっと横目でこちらを見て 「や、なんでもねーし。それより、なぁ、智也?」 「なんだい?」 「喉、乾いた。また飲ませてくれる?」 祥悟はそう言って、ちょっと照れたように笑った。

ともだちにシェアしよう!