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第280話 秋艶67
ひゅーひゅーと祥悟の喉が鳴く。
苦しそうで可哀想で、せめて震えだけでも止めてやりたくて、智也は必死に彼を抱き締めていた。
胸に埋めた彼の顔は見えない。
ただ、幼い表情で恐怖を張り付かせて、泣いているのだということはわかる。
救急車は呼べなかった。
祥悟は絶対にそれを望んでいない。
恐らくは泣いている顔を、他の誰にも見られたくないだろう。
涙声で絞り出した「お願い、だから」という彼の声が、耳にこびりついて離れない。
あんな目をしてあんな哀しげに、それでも必死に訴えてきたのだ。
「祥……祥……」
自分の呼びかけが聴こえたのか、不意に祥悟が顔をあげた。真っ赤な目からぽろぽろと涙を零し、視線をうろうろと彷徨わせている。真っ直ぐに彼を見つめているのに、視線が合わない。
智也は胸を締め付けられる思いで、彼の頬をそっとそーっと撫でた。零れ落ちる涙が、温かく指先を濡らす。
「祥……」
祥悟が震える唇で何か呟いた。でもそれは、声にならない。吐き出したいのに吐き出せないのか。
「祥」
名前を呼ぶことしか出来ないのがもどかしい。
祥悟の唇が再び動いた。
漏れ出る息が「かあさん」と微かに音になる。
続けて聴こえた「りさ」という言葉。
苦しそうにぎゅっと顔を歪め、祥悟はまた胸に顔を埋めてしまった。
智也は滲む涙を抑えきれなかった。
この暗闇を宿したような虚ろな瞳で、祥悟は過去の苦しみの幻影を見ているのだろうか。
やはり最後の撮影は延期するべきだった。
祥悟がどれほど言い張っても、何としてもやめさせるべきだったのだ。
彼は今までみせたことのない憔悴を、自分に示してくれていたのだから。
……ごめんね、祥。ごめん。俺が気をつけてやればよかったよね。
智也は込み上げてくる涙を堪えながら、祥悟の頭を優しく何度も撫で続けた。
「智也……」
胸の中で、祥悟が自分の名を呼ぶ。
智也は少し腕の力をゆるめて、祥悟の顔を恐る恐る覗き込んだ。
泣き腫らして目が真っ赤だ。
涙の跡が痛々しい。
だが、虚ろな瞳には生気が戻り、いつも通りの眼差しを取り戻していた。
「大丈夫?おさまった?」
「ん……ごめん……」
智也は彼の柔らかい髪をそっと撫でながら微笑んだ。
「謝らなくていいんだ。苦しかったよね」
「……みんなは……?」
「さっき監督が心配して様子を見に来てくれたよ。スタッフは先に帰してもらった。残っているのは俺たちだけだ」
「撮影、どうなった?最後まで、撮れてた?」
智也は驚いて目を見張り
「覚えてないの?大丈夫。無事に撮り終えたよ」
「……そっか…」
祥悟は目を伏せ小さくため息をついた。
「途中から記憶ねえの。最後のやつとか、全然覚えてねえし」
そんな風には少しも見えなかった。ポーズを変える時も普段とまったく変わらない様子で、独特のオーラを放ってさえいたのに。
「午後の撮影はやっぱり延期すればよかったな。君の体調が良くないことは分かっていたんだから」
「や。最後までいけたんならさ、あれでよかったんだ。たぶん、別の日に撮り直してもおんなじことになったし」
「え……?」
智也が首を傾げて聞き返すと、祥悟はちらっと横目でこちらを見て
「や、なんでもねーし。それより、なぁ、智也?」
「なんだい?」
「喉、乾いた。また飲ませてくれる?」
祥悟はそう言って、ちょっと照れたように笑った。
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