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第108話 揺らぐ水面に映る影7
「なあ……智也。おまえもさ、怒ってんのかよ?」
自分の感情を持て余して、しばらくの間、祥悟に背を向けて茫然自失してしまっていたらしい。
不意に、祥悟の拗ねたような声が頭上から降ってきて、智也は、はっと我に返った。
振り向きながら見上げると、声音通りにふくれっ面をした祥悟の顔がある。
「……怒っては、いないよ」
「や。怒ってんじゃん。おまえ、目が怖いし」
「……怒ってない。でもちょっと……呆れてる……かな。君は、考えなし過ぎるよ」
祥悟の目がきゅっと細くなる。そういう拗ね顔も呆れるくらい愛おしいけれど、今は自分のそういう感情すら……辛い。
「仕方ねえじゃん。あいつのマンション行った時はさ、まさかこんなことになるなんて、思ってなかったし?」
祥悟はそう言って、柔らかそうな自分の髪の毛をうっとおしげにかきあげた。
ちょうど夕暮れ時で、窓から射し込む西陽に、その髪が透けて煌めく。
美しくて息を飲みそうな光景なのに、それが余計にせつなく胸を締めつけた。
密やかに愛し続けた、自分だけの天使。
この愛おしい生き物の側に、例え兄貴代わりでもいられればそれでよかった。
でも……もしかしたら、もうそれすら叶わなくなるのだ。
自由気ままで伸びやかな羽根を縛られ、あの娘の夫になって……子どもの父親になる。
この、祥悟が?
結婚する? 父親になる?
ダメだ。どう考えても信じられない。
そんなことは、ありえない。
智也は、無意識に立ち上がっていた。
こちらに背を向け、いつの間にか窓の側に立ち、庭を呑気に眺めている祥悟に、そっと歩み寄る。
こうして、手を伸ばせば届く距離にいるはずの天使は、本当はずっと遠くにいる幻なのかもしれない。
捕まえてみようか?
他の誰かに盗られるくらいなら。
いっそ自分がその羽根をもぎ取って、誰の手にも届かない場所に閉じ込めてしまおうか。
バカバカしいことを考えている、という自覚はあった。そんなこと、実際には出来るはずもない。
ただ、せめて……自分の想いを彼に打ち明けたいと思った。
今回の件が、例えば事実ではなくて、祥悟が責任を取るような事態を回避出来たとしても、またこんなことは何度でも起きる可能性があるのだ。
祥悟は自分とは違って、ストレートなのだから。誰かに恋をして、その女性と結婚したいと思う日もくるかもしれない。
兄貴代わりだなどといい顔をして、自分の本心を隠したまま、自分ではない誰かと祥悟が結ばれる未来に怯え続けている自分。
情けないにも程がある。
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