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第109話 揺らぐ水面に映る影8

「祥……」 声が掠れて上手く出ない。 心臓が早鐘のように鳴っている。 後ろからそっと抱き締めて、囁きたい。 「君が、好きだよ」と。 今、このタイミングで、じゃない気がした。 でももう、そんなことどうでもいい。 余計なことを考えてしまえば、また自分は金縛りになる。 「祥……君が」 ふいに、祥悟がくるっと振り返った。 智也はどきっとして、手を伸ばしかけたまま固まった。 「あいつがさ、どうしても俺と結婚したいって言うんならさ。俺、別にしてやってもいいんだよね」 「……え」 祥悟はぽりぽりと頭をかいて 「まあ、まだちょっと早いだろ~って気はするけどさ。俺、二十歳になったばっかだし、あいつも16だしさ」 祥悟は頬にあてていたタオルを外して、差し出したまま固まっている智也の手にひょいっと渡すと 「多分、あいつ、恋に恋するお年頃だしさ。俺のこと、よく知りもしねえで憧れてるだけだろ? 結婚したってすぐ幻滅するよね。俺はいい旦那になるタイプじゃねーもん」 「祥……、君」 「だからすぐ離婚とか、なっちゃうんじゃねーの? それでもいいなら別に結婚してもいいし」 あっけらかんとそう言って、けろっとした顔で笑う祥悟に、智也は顔を歪めた。 ……どうして、君は、そうやって…… 「離婚、する前提で、結婚なんて、するもんじゃないだろう」 自分の声がひどく遠く感じた。 妙にしわがれた声が出て、慌てて咳払いをする。 祥悟は首を竦めて 「形だけの結婚ならさ、別にいいのな、俺。 ただ……子どもは無理だ」 急に、祥悟の口調が変わった。浮かんでいた呑気な笑顔も消えて、表情がなくなる。 「ガキは無理なんだよ、それだけはさ。俺は子どもの親になるなんて、ぜってーに無理」 吐き捨てるような口調に、らしくない響きを感じた。智也は祥悟の横顔を無言で見つめて呟いた。 「子どもは……嫌いかい?」 祥悟はどこか遠くを見るような目をしている。 「好きとか嫌いとか、そういうことじゃないんだよね。とにかく無理。俺の血を継いだガキなんてさ、想像すんのも無理だし。ぜってーに、ありえない」 頑なな祥悟の言葉。 それはそうだろう。祥悟自身、ようやく成人したばかりなのだ。急に父親になれと言われたって、そう簡単には受け入れ難いはずだ。 5歳上の自分だって、もしゲイじゃなくて、子どもの父親になれと言われても、はいそうですかと受け止めるのは難しい……と思う。 「もし、あの娘が本当に妊娠していたら……」 「たぶん、してない」 「そんなこと、どうして言いきれるの? 彼女とちゃんと会って話をして……」 「会って話はする。おっさんやアリサがOKならな。でも当分は無理じゃねーの? 俺って謹慎処分なんだろ?」 そう言ってこちらを向いて苦笑する祥悟の顔は、いつもの彼だった。 さっきまでの彼の横顔が、まるで血を連想するように真っ赤に見えたのは、きっと沈みかけた夕陽の悪戯だ。

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