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第110話 揺らぐ水面に映る影9

「ねえ、祥。彼女との話し合いがどうなるか分からないけど。結婚はそんな安易にするものじゃないよ。本当に好きな相手とか、お互いの価値観が合う人とか。そういうこと、もっとじっくり考えて……」 「本当に好きな女とは、俺は結婚はしねえもん」 祥悟は面倒くさそうに手をひらひらさせて、智也の言葉を遮ると、横をすり抜けさっきの椅子に腰をおろした。 「どうして?」 祥悟はテーブルの上で両手を組んで、目を伏せた。 「前に言ったじゃん。ワケありだってさ。もし俺があいつを自分のものにしたら、あいつは間違いなく不幸になる」 ……以前ちらっと聞いた祥悟の想い人だ。すごく可愛い女性だと言っていた。 そうか。 まだその娘のことを想い続けていたのか。 さっき感じたのとは違う痛みが、智也の胸をちくちくと刺す。 「相手は既婚者……なのかい? だから結婚出来ないの?」 今まで何度か、その話になったことはあった。でも、祥悟が自分からすすんで話してくれること以外は、極力訊ねないようにしていた。 智也自身が聞きたくないのもあるが、そういう時の祥悟の態度に、触れられたくないというオーラが滲んでいたせいもある。 だが、今回はもう一歩踏み込みたい。 なかなか見せてはくれない祥悟の本音に、もう少し触れてみたい。 祥悟は腫れた頬が痛むのか、少し顔をしかめながら指先でその場所をさすって 「んー……まあ、そんなとこ。俺、出来ればそいつのこと、忘れたいんだよね。っていうか、好きになっちゃダメだって分かってたからさ、そうならねえようにしてたつもりだったんだよね。でもさ……こないだ気づいちまった。自分の気持ち」 「……祥……」 祥悟は組んでいた手をほどいて、自分の手のひらをじっと見つめ 「なんでかなぁ……。どうして好きになっちまったんだろ。どうにもなんねえの、わかってたのにさ」 まるでため息のような、祥悟の呟き。 その声が、智也の心に突き刺さってくる。 そう。 どうして、好きになってしまったんだろう。 初めから、叶わないと、わかっていたのに。 目の前でぼんやりと手のひらを見つめる祥悟は、恋に苦しむ男の顔をしていた。その瞳に今映っているのは、自分が知らない誰かなのだ。 近づいても近づいても、どうしても縮まらない祥悟との距離。手を伸ばせば触れられそうで、でも決して抱き締めることの出来ないこの距離感が、自分と祥悟の現実だった。 智也は、祥悟に背を向けて、窓の外を見つめた。 さっきまで、辺り一面を怖いくらい暖かく染めていた夕陽は、もうすっかり地平線の下に隠れてしまった。 代わりに落ちてくる夜の帳の始まりの色が、見えていた景色を暗く滲ませていく。 やがて、夜は全てを闇で覆い隠してしまうだろう。目を凝らしても、その先に光はないのだ。

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