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第112話 揺らぐ水面に映る影11

マンションに辿り着くと、智也はダイニングの食器棚からブランデーとグラスを取り出した。 『おまえのマンション、泊まらせてくんねーの?』 祥悟の声が、頭の中で繰り返し響く。 それは、祥悟が自分からは滅多に言ってくれない言葉だから、別のタイミングだったら、舞い上がるほど嬉しかったのだ。 でも、今日だけは……ダメだった。 先日から何度か、打ち明ける機会を逸して、結局伝えることも出来ずにいる、宙ぶらりんな自分の想い。 「キミガスキダ」 たった6文字の短い言葉を、口に出せずにいる自分。 ものすごく簡単な言葉のはずなのに、どうしてこんなにも難しいのだろう。 『俺を置いてくのかよ』 そう発した祥悟の目に、拗ねた色も恨めしげな色も滲んではいなかった。ほとんど無表情で放たれたその声に、縋るような響きを感じたのは、きっと自分の後ろめたさのせいなのだ。 祥悟は今頃、もうぐっすりと眠っているのだろう。 智也は、ブランデーを抱えて椅子に力なく腰を降ろすと、グラスに注いで一気に煽った。 いつもは、撮影の前日にこんな飲み方をすることはないけれど、祥悟の声がこびりついて離れない自分の頭を、酔いで麻痺させてしまいたかった。 翌日は、案の定二日酔いを引きずっていて、どうにかこうにか仕事場へは遅刻寸前に辿り着けた。だが仕事中も祥悟のことが気になって、世話をお願いしていた峰さんに電話をして、彼の様子を何回か確認していた。 峰さんは、自分があの祖父の家に住んでいた頃に、面倒を見てくれていた家政婦だ。 兄たちとかなり歳の離れた幼なかった自分を、たいそう可愛がってくれた優しい女性だ。もう今は現役を引退しているが、あの家に年に何度か泊まりに行く時は、いつも連絡を取っていた。仕事で忙しい実母以上に、自分にとっては母親のような存在だった。土産物を持って家を訪ねるといつも温かく迎えてくれて、こちらが頼まなくともあれこれと世話を焼いてくれる。今回、祥悟のことを頼んだ時も、何も詮索はせずに快く引き受けてくれた。 祥悟は勝手に出て行ったりはせず、あの家で大人しくしてくれているらしい。 智也は気もそぞろに仕事を終えると、事務所に寄って社長の指示をあおいだ。 社長は終始、苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、祥悟の怪我の具合いをかなり気にしていた。病院に連れて行くと話すと渋い顔になり、往診をしてくれる知り合いの医師に、連絡をとってくれた。 事務所を出て、車で祖父の家へ向かう。 会いたいけれど、会いたくない。 心の整理は、まだついていなかった。

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