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第4話

 翌朝、出立の準備を整えたキラとミールを迎えに来たのはジャムシードだけではなかった。馬二頭の豪華な幌付き馬車に、護衛の騎馬兵、荷物運搬専用の馬車まで家の前に並んだのだった。  黒馬からひらりと降りたジャムシードも、昨日の騎士姿ではなく羽振りのいい商人のような服装だった。手にはキラとミールの服。それも見たことがないような繊細で美しいサリーや子ども服だった。 「僕たちは着慣れたもので十分ですので。それにサリーは女性の――」  断ったが、ジャムシードは首を振った。 「変装してもらいます。家族旅行のふりをしていただかなければ」  聞けば、失踪のうわさを聞きつけたチャーンド帝国がアーフターブの後宮オメガを――つまりキラを捜しているのだという。そのため国を出るまでは、キラはオメガとばれてはいけなかった。女装した上で、ジャムシードと家族を演じなければならないのだ。 「寵妃や子を捕虜とすれば政治的にはいい切り札になります。当然、そうなってしまえばあなたもご子息も命の保証はない」  そう言われれば拒否することはできなかった。  昨晩、身体の水分をすべて涙にしたキラは、決意したことがあった。 (治安のいい街で逃げ出して、そこでミールとゼロから生活を立て直そう)  もし、ジャムシードの言うように自分が後宮のオメガだったとしても、顔も知らない王太子のもとに戻るなど想像もつかなかった。ミールだって、いい暮らしはできるかもしれないが、どんな目に遭うか分からない――。 (僕がミールを守らなければ。記憶のない、何もできないオメガのままでいてはだめなんだ)  キラは、着せられた女性用のサリーをぎゅっと握りしめた。細かな刺繍や染色が施されていたそれは、初めて見る代物だが明らかに高級な衣装だと分かる。短い髪で男だとばれないよう、頭には大判のストールを巻いた。ミールも金持ち商人の息子に扮装するため、飾りのついた華美な子ども服を着せられている。  ジャムシードがキラの前に屈んで、靴を差し出した。 「もう盗まれる心配はありませんよ」  少しの意地悪を孕ませた声。キラは内心腹を立てながらも、おそるおそる足を差し入れる。 「僕、靴は初めてで……」 「村では、ね。アーフターブでは靴をお召しでしたよ」  足が甲まですっぽりと包み込まれる安定感に驚いた。靴から伸びる固定用の平布を足首に巻くと、ぴったりと固定された。  その仕草に、ジャムシードが指を顎に当てて「ふむ」とうなずいた。 「靴の履き方は身体が覚えているようですね」  そういえば――。初めて靴を履くのに、平らな布が固定用であることを知っていて、勝手に手が動いて足首に巻いた。 (記憶がない、といいつつ、僕は色々知っているんだ)  よく考えると、意識を取り戻した際もキラは赤子のような知能ではなかった。  水は飲むもの、服は着るもの、朝の挨拶は「おはよう」――など人として生きる基本的な知識はそなわっていたのだ。記憶はないのに下働きがよくできた、と祖父が言っていたので、身体が覚えていることもかなりあるようだ。  キラはそこで初めて気づく。忘れているのは、自分に関する生活史だけなのだ、と。  事情を知らない村人たちは、ジャムシードが準備したきらびやかな隊商に気づき、遠くから出立の様子を見守っていた。 「キラを気に入った金持ちが強引に連れていったとでも話しておく」  馬車に乗る直前、祖父がそう言って微笑んだ。 「おじいちゃん」  いまだに信じられないでいた、この人が自分の祖父ではないなんて。  格別優しいわけではなかったが、静かに自分たち親子を見守ってくれていた。ミールの出産だってそうだ。  キラは祖父の枯れ木のような手をぎゅっと握った。涙が勝手にこぼれてストールを濡らすが、言葉がうまく出てこなかった。 「おじいちゃん」  ジャムシードに促されて馬車に乗るが、今度はミールが泣き出した。 「おじじさま、おじじさまはいかないの?」 「ミール、立派な人になるんだよ。この村での嫌だったことはすべて忘れなさい」 「おじじさま」 「わしをうらみなさい」 「うらまないよ、ねえ母さま、おじじさまもいっしょにいっていいでしょう?」  キラは嗚咽を漏らして視線をそらした。代わりにジャムシードが答えた。 「できない。君の〝おじじさま〟は家を守らなければならないから」  ひっひっ、としゃくり上げ、珍しく声を上げて泣いた。村の子どもたちに「やもめオメガの子」などといじめられても耐えていたミールが、別れを察して子どもらしく泣いたのだった。キラが抱き寄せると、より涙を溢れさせた。  祖父の言うように、嘘で塗り固められたこの村にはいられない。  何を言われても真偽を疑いながら生きていくのは耐えられないだろう。ミールがいじめられるのも、自分がぞんざいに扱われるのも、夫の借金と借金を止められなかった自分のせいだと言い聞かせて、やっと折り合いをつけてきたのに――それがすべて村ぐるみのはかりごとだったのだから。 「だまされていたのに、悔しさより悲しさが勝るのですか」  理解できない、といった顔でジャムシードが尋ねる。 「嘘だったかもしれないけど、僕たちはこの五年、確かに三人家族でした。おじいちゃんが僕たちを養ってくれていたのはまぎれもない事実ですから」 「三人家族……ですか」  ジャムシードが肩をすくめるので、キラはムッとして顔を外に向けた。  走り出した馬車から村を眺める。洗濯かごをもった女たちがこちらをジッと見ていた。別れを惜しんでいるわけではなく、妬み嫉みを焦がしたような視線だった。  しばらく馬車を走らせたところで、ジャムシードは御者に停車を命じる。自分の馬に乗り換えると、先に行くよう指示をした。 「忘れ物をしたので、あとで追いつきます」  ジャムシードは馬を軽やかに操り、村のほうへと戻っていった。

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