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第1章ー第7話 閻魔大王現る

 田口が教育委員会文化課振興係に配属になって一か月が経った。部署の業務内容も一通り把握できた。この部署では、市が主催したり、共催したりする文化系イベントに関わっている。文化系イベント、特に音楽から美術を取り扱う、かなり偏った、難易度の高い部署だった。  正直、どちらも(たしな)んだ経験のない田口には、意味がわからないことばかりだ。  それなのに、その分野の企画をしなければならない業務内容には不安しかない。焦る気持ちを持ちながら、雑用のような仕事をこなす毎日だった。 「田口、外勤」  ある日の午後。保住の声に顔を上げた。 「はい」  大した仕事もない。一か月は、雑用みたいな仕事ばかりだから。声をかけられて、直ぐに席を立てるくらい予定はないのだった。 「いってらっしゃい」  事務所にいた谷口に見送られて、保住の後ろをついて行った。 ***  廊下に出ると、事務局長の澤井と鉢合わせになった。彼は大柄ながっちりした男だ。堂々たる体つきに似合う(いか)つい顔。いつも眉間には皺が刻み込まれている。口を開けば嫌味。性格の悪さがにじみ出ている容貌だった。  彼は田口たちとは廊下を挟んで向かい側の個室で仕事をしている。そのため、そう顔を合わせることはない。現場の決済権限者である課長の佐久間とのやり取りが多いためだ。 「保住」  重低音の少し嗄れた声が保住を呼ぶ。彼は知らんぷりを決め込むつもりだったようだが、軽く溜息を吐いてから視線を澤井へと向けた。 「なんでしょう?」 「外勤か」 「ええ。なにか問題でも?」  澤井は長身だ。そのおかげで足も長いのだろう。間合いを詰めてくるのが早い。ぐんっと目の前に立たれると、大きな壁みたいで威圧感を覚えた。  同じくらいの身長の田口ですらそう感じるのに、保住は臆することなく、面倒だと言わんばかりに視線を逸らした。 「例の企画。全く音沙汰がないのだが」 「詰めている段階です」 「そんなことは、おれがやるから。早く出せ」 「ご冗談を。本当にお持ちしたら、ゴミ箱行きでしょう」 「拗ねるな。ちゃんと見てやる」  ちらっと澤井を見た保住は、また溜息。そして肩を竦めた。 「承知しました。明日、お持ちいたします」 「今日だ」 「帰りは、定時を過ぎますよ」 「何時でも構わないぞ」  澤井はそう言うと、踵を返して自室に消えた。 「ち、面倒だな」  心底、嫌そうな顔を見せる保住。いつもは飄々としていることが多いのに、さすがに事務局長の澤井の相手は面倒らしい。 「課長飛ばしで企画書を見るというのですか」  ――そんなこと、聞いたことがない。しかも、局長が係長に直接指示? ありえない。  田口の疑問をよそに、保住は歩き出しながら答えた。 「いつものことだ」 「いつもって、え? そ、そうなんですか」 「あの人のやり方は好きじゃない」  ――あの人?  なんだか棘のある言い方に聞こえた。田口が不可解な表情をしていると、言いたいことをくみ取ったのか、保住は口を開いた。 「あいつの部下になるのは、二度目だ。――全く好かん!」 「二度目――ですか」 「そうだ。入庁して初めての部署で一緒だった。澤井は課長だったが」  田口は首を傾げた。 「課長と新人では、あまり接点がなさそうですが……」  ――よほど嫌われるようなことがあったのだろうか? 「おれは見ての通りの人間だからな。根に持たれるような事をしたのかどうかはわからないが、それでもあまりにしつこい嫌がらせばかりだ。悪いな。おれの部下になったばかりに、澤井には何かと嫌なことをされるだろう」  保住は申し訳なさそうに顔をしかめた。しかし、そんなことは問題ない。  ――上司からの嫌がらせなんて、いつものことだ。  田口は首を横に振った。 「上司の嫌がらせなんて日常茶飯事ではないですか。別に直属の上司を恨んだりしませんよ」 「そうか? お前は、今まで随分な部署にいたようだな」 「おれも悪いのだと思います。火のないところには煙は立ちません」  公用車に乗り込んでから、保住は笑った。 「田口が火の元になるようなキャラには見えないが」 「いえ。こんな無愛想な男、扱いにくいと思われる人が多いでしょう」 「無愛想かな……」  保住の呟きは良く聞き取れないが、エンジンの音がして、車が走り出したので、特に聞き返すことはなかった。

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