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第3章ー第39話 猫の母、現る
処置室に入って一時間。澤井はじっと待合室で座って待っていた。いつも、そう混んでいる医療機関ではない。近所の年寄りたちが顔を出しては、「急患対応中だから夕方に来てね」と受付嬢に言われて「わかったよ」と言い残して帰っていく。
そんな様子を眺めていると、慌ただしく一人の女性が駆け込んできた。
「あの、保住です。……あ、澤井くん、ありがとうございます」
彼女は澤井を見るや否や頭を下げる。
「いや、加奈子さん、申し訳ない。おれが着いていながら。また今年も……しかも、昨年より悪い」
長い髪を後ろで一つにまとめた加奈子は、息を整えるように、何度も深呼吸をしてから澤井を見た。
「いいえ。澤井くんのせいではないわ。あの子が自分できちんとできないのが悪いんだから。大の大人が毎年毎年、熱中症やら凍傷になるだなんて、恥ずかしい話です」
保住の母親は頭を下げてから、真っ直ぐに視線を上げた。凛とした彼女の態度。息子が体調を崩していると聞いて、慌てて、なり振り構わず駆けつけたであろうことは想像に硬くないのに。
――人前では弱いところは見せないのだな。
澤井はそう思った。
「もう少しで一時間になる」
彼がそう言った時、診察室の扉が開いて、熊谷医師が顔を出した。
「先生、またお世話になりました」
「お母さん」
「どうです? 先生」
澤井も緊張する。いつものふらふら程度の熱中症ではないことは、澤井の目から見ても明らかだったからだ。
「重症です。点滴して、はいおしまいってわけにはいかないね」
熊谷医師はそう言うが表情は柔らかい。深刻な状態ではないと、澤井は受け取った。
「ただ、意識が朦朧としていたし、酸素のレベルが落っこちていたので、しばらく入院して経過を見たほうがいいでしょう。熱も下がったとは言え39度台なので、まだまだ予断は許さないがね」
「本当にありがとうございます」
加奈子は深々と頭を下げた。
「お母さん、澤井さん、面会どうぞ。寝ていますけどね」
加奈子はペコリと軽く会釈をして、診察室に入っていく。澤井はふと足を止めて医師に頭を下げた。
「本当にいつもありがとうございます」
「私はなにも。いつも澤井さんが一早く連れてきてくれるからね。それが功を奏するね」
再び頭を下げてから、中に入る。点滴や数本の管に繋がれた保住は、酸素マスクを当てられて寝ていた。そこに加奈子は大きな声でああだこうだと言っている。
「もう! いい加減にしなさいよ! どれだけみんなに迷惑かけていると思っているの?!」
「加奈子さん……」
澤井は苦笑いだ。役所内では鬼と呼ばれている澤井でも、太刀打ち出来ない女性かもしれない。
「でも……」
「大丈夫ですよ、加奈子さん。迷惑なんてかけていませんから。それより、早く復帰してもらわないと。空いた穴は大きい」
「わかりました」
微かにまつ毛が震えて、彼の右手が動く。聞こえているのだろうが、まだ思うように体を動かすことができないようだ。澤井はそっと保住の手を握る。
「待っているぞ、早く戻ってこい」
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