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第6章ー第66話 裏路地の再会

 田口はビールを袋に抱えて、夜道を歩いていた。今日も残業だ。イベントごとは待ってはくれない。昨年から、星野一郎記念館のサロンで開催される演奏会の企画を持たされているが、今年度も継続して割り当てられていた。他の職員たちも、別件の企画でそれぞれが忙しかった。  今年は大きい新規事業が入りそうな予感だ。  梅沢市を舞台にした、オペラの制作である。星野一郎の人生をオペラ仕立てで表現しようというコンセプトなのだ。行政が主導でオペラの制作をするとは、なかなかないことであるし、梅沢市としても前例がないことだ。  よくこんな企画を思いついて、オッケーを出す上層部がいるものだと半分、耳を疑ってしまう。裏を返せば、それだけ星野一郎を売りたいのか。――いや、星野一郎しか切り札がないとも言える。  梅沢は、昔から観光地としては負け組だった。田口の地元である雪割町(ゆきわりちょう)は、米どころを推して名を売っているところだが、梅沢は観光地としての宣伝がとにかく下手。果樹などが盛んであるという事も、なかなかPR出来ていない。  前職で農業の振興課係だった田口としては、力を入れていたはずなのだが、なかなか功を奏することが出来なかったのは事実だった。上司や同僚に恵まれなかったからかもしれない。このメンバーで農業振興をしたら、かなりいい線に行くのではないかと思うくらいだった。  ――今度こそ成功させる。  そんな大きな事業を(ひら)の自分が担当することはあり得ないが、全力でサポートするつもりだった。  仕事のことを考えて歩いていると、自宅マンションのすぐ側にある、お洒落な飲み屋から若い女性たちが数名出てきた。普段なら目にも止まらないものだが、彼女たちの会話が耳に飛び込んできて、つい視線を向けた。 「今日は、見込み違いだったわね」 「本当、時間の無駄だったわ」 「ごめん、だって向こうの幹事くんが、かっこよかったから友達も同じだと思うじゃん」 「のチョイスは怪しいからなー」  そこまで聞いてはっとする。  ――「みのり」って……、みのりさん? 保住みのり?  立ち止まってしまった田口に、相手も気がついたようでこちらを見た。 「あらやだ! こんなところ見られちゃった」 「みのり、さん?」  保住の妹のみのりは、ワンピースの可愛らしい格好だ。さしずめ、男性の団体との飲み会だったのだろう。 「お久しぶりです。昨年は兄が色々ご迷惑をおかけしたのに、ご挨拶もしないですみませんでした」  みのりはぺこりと頭を下げた。綺麗な女性は苦手だ。オロオロして、黙って頭を下げた。 「仕事帰りですか? いつもこんなに遅いんですか?」 「いや。今日は残業で」 「兄に仕事押し付けられてません? あの人、父のこと嫌いなくせに、自分のしてることは、父と同じですからね。黙ってることないですよ。文句言ってやって良いんですから」 「いや」  ――文句なんか言えるはずないだろ。上司だし。 「仕事ですから」 「また! 田口さんが甘やかすから付け上がるんですよ! 厳しくしてもらわないと」 「すみません」  なんで自分が怒られるのか分からないが、とりあえず謝っておく。 「あらやだ。また、いつもの調子が出ちゃった」  二人が立ち話をしていると、後ろにいたみのりの友達たちは、ワクワクした感じで声をかけてきた。 「あのー、みのり。どなたなの?」 「あ、お兄ちゃんの部下の人で田口さん」 「こんばんは。田口です」  一同は「きゃっ」と声を上げる。  取っ付きにくくて鈍臭いから、どうしても職場では人気が出ないものだが、長身だし、整った顔立ちは、結構いい線を行くはずの田口だ。先程までの男子に比べたら、マシなのだろう。みんな嬉しそうに寄ってきた。女子は苦手だとばかりに、田口は少し後ずさった。 「みのりのお兄さんの部下ってことは、市役所ですか」 「え、ええ」 「公務員も悪くない」と、一同は顔を見合わせる。 「今度よかったら、わたし達と飲みに行きませんか?」 「しかし」 「私たち、梅沢銀行勤務なんです。時間は合わせますから。何人かお友達も一緒にどうでしょうか」  友達なんていない。困っている田口を見兼ねて、みのりは口を挟んだ。 「だめだめ。お兄ちゃんにこき使われてる限りは、女子と飲み会なんてする余裕ないですもんね」 「えっと」  目を瞬かせてみのりを見ると、彼女は目配せをする。話を合わせろというところか。 「すみません。毎晩、こんなもんで」 「えー! 週末は休みでしょう?」 「イベント系の部署にいるものですから。休みもほとんどないんですよ」 「ほら! あんまり困らせないで。時間あるときに調整してもらえるようにお願いしておくから、今日は帰ろ」 「えー、つまんないの」  みのりは、納得しない友達たちの背中を押して方向を変えた。 「じゃあ、田口さん。また今度」 「みのりばっかりズルイー」 「お兄さんだってイケメンなのに」  女性の集まりは恐ろしい。それを見送ってから、大きくため息を吐いた。手に持っているビールを飲む気にもなれない。  ――今日は寝よう。  そう思ってマンションに足を向けると、ポケットの携帯が鳴ったので確認するために引っ張り出す。画面には、メールの新着のお知らせが。こんな時間にメールを寄越すのは一人しかいない。 『明日、朝一で打ち合わせ。今日見た資料を直しておけ』  ここのところ、こうしてメールで指令がくることが多い。きっと自宅で仕事をしていて思い出すのだろう。頼ってもらえるのは嬉しいことだから、こんな突然の依頼でも心が弾んだ。  保住なら数分で終わる作業なのだろうけど、凡人の田口にとったら一時間はかかる作業だ。これは直ぐには寝られないらしい。 「仕事するか」  軽く苦笑して、田口は自宅を目指した。

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