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第7章—第73話 田口を励ます会
「元気出せよ! おれたちが聞いてやるって言ってんだろう」
矢部は田口に絡まっていた。田口を励まそう会なんて名目で、結局は自分たちの鬱憤晴らしであることは明らかだった。
「別に、落ち込んでいません」
田口は小さく答える。
「嘘だ! 『おれは傷付いている、助けて!』って顔してるよ」
「そうだそうだ」
谷口や矢部の言葉は、傷心の田口を更に追い立てるのか。田口はますます、眉間にシワを寄せて俯いた。なんだか視界がぼやけて涙が零れそうだった。
――辛い。生きていくのって辛いんだな……。
「な、泣くなよ!」
「そうだぞ! 男だろ?!」
「男だって、涙が出ることはあります……」
「なんだよ。辛いのか? 仕事か? 女か?」
日本酒で出来上がった彼は突っ伏して泣き始めた。それを、隣に座る矢部は「よしよし」と背中を撫でてくれた。彼の手はグローブみたいに大きくて暖かい。田口の傷ついた心にじんわりと染み入った。
「おれ、なにかしたのでしょうか? ――係長に嫌われてます」
「はあ?!」
「そこ?!」
田口の理由に、渡辺は苦笑した。
「田口は、本当に係長が好きだな」
「だ、だって……」
「係長もお前がお気に入りだろ? どうしたんだよ」
「昨日から、口を利いてくれません……。仕事も任せてもらえません……」
「口は利いているだろう? 無視はされていない。係長が事業の要を他人に渡すのは見たことがないんだぞ。お前は信頼されているだろう? そう気に病むなよ」
「しかし――」
昨日から保住の様子がおかしいのだ。よそよそしい。今までのように仕事を与えてはくれない。信頼されていないような気がして、気持ちが落ち着かないのだ。
――おれのこと、信用してくれなくなったのだろうか。
「確かに。なんかさ。昨日あたりから、一昔前の係長に戻っちゃったような気はするけどね」
矢部の意見を聞いて渡辺は「一理あるが」と頷いてから、田口に視線を寄越した。
「お前、係長の家族が体調不良なことは知っているか?」
「え?」
渡辺の言葉に、田口は顔を上げた。
「はい」
「なら話は早い。多分、係長は今プライベートのことで頭がいっぱいなんだよ」
「それは……」
田口はコクコクと何度か小さく頷いた。
「そっとしておいてやれよ。人間、一人になりたい時もあるものだ。気にすんなって。きっとそっちが落ち着いたら元の係長に戻るよ」
矢部や谷口の励ましの言葉が素直に入ってこないのはどういうことなのだろうか。田口は感じ取っているのだ。保住が自分に対しての態度を変えた理由は、祖父の体調不良だけではないということ。それは一番近くにいた自分だからこそ、嗅ぎ取れるものなのだ。
この三人にいくら励まされたり、慰められても、田口の心が満たされることはないのだ。
――そばにいて支えるなんて思っていたくせに。そっぽを向かれてしまうと、途端にこんなにも不安になるものか?
「さあ、今晩はお前を励ます会だぞ。さっさと飲めよ」
「――はい」
賑やかで明るい席なはずなのに、田口の心は更に深く沈み込むばかりだった。
***
渡辺たちが開いてくれた「自分を励ます会」がお開きになり、田口は一人帰途についた。渡辺たちは、保住のよそよそしい態度は親族の体調不良だと片付けていた。
――違う。あの人は、そんなんじゃない。自分はなにかしたのだろうか?
一緒に仕事がしたい。
信頼してもらいたい。
――そして。笑顔を向けて欲しい。
『田口』
彼の口から、自分の名を呼ばれることが、どんなに幸福なことか。どんなに、たくさんの人に認められたって。心がぽっかりと穴があいたみたいに寂しい。
――満たされない。
自分が欲しいのは――。
――たった一人。
きっと『保住』という、その人だけなのだ。
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