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第12章ー第101話 女性作曲家
オペラの上演は三月三十日に予定されていた。四月で年度が切り替わるのに、その時期に大きな事業を行うのは無謀としか言いようがない。しかし全ての都合が合わなかったのだ。
開催当日に合わせて、帳尻合わせをしていくスケジュール管理は並大抵のものではない。自分で作る書類だったら楽なのに。
人に依頼して作ってもらうということは、なかなか難しい。滞りなく進んでいるかのように見えたスケジュールも秋になって詰まってくると、綻びが出はじめてきた。
「どうも曲作成が遅れています」
曲の作成管理をしていた渡辺が、渋い顔で言い出したのは、十月上旬のことだった。
「演奏家たちのところに届く楽譜の最終締め切りは十月末ですが、どうにも。そもそものメインテーマである序曲と、見せ場シーンの作曲が滞っているようなのです」
報告を受けた保住は考え込む仕草をした。スタッフが付き添って進むものでもない。渡辺は随分とマメに作曲家のところに通ってくれている。それでも滞る。雑誌などを作る編集者だったらまだしも、自分たちは素人である。作曲家にやる気を出させたり、相談に乗れるような人材ではないのだ。
「なにができるかわかりませんが、おれも顔を見に行ってみましょうか」
保住の言葉に、渡辺はほっとしたようだ。
「本当ですか? 助かります」
「明日、田口と市民合唱団の団長との打ち合わせがあるので、その帰りにでも寄ってみます」
「ありがとうございます」
「渡辺さんも立ち会ってください」
「勿論です。現地集合にしましょうか」
「そうしましょう」
保住の返答を聞いて、少し肩の荷が下りた。そんなところだ。
今回のオペラの作曲を依頼しているのは、神崎 菜々 。梅沢市在住の作曲家だ。
年齢は四十歳くらいの女性だ。プライベートは謎に包まれているが、手掛けるジャンルは幅広く、オーケストラから声楽曲、ポップスまでなんでもこなすようだ。
彼女作曲の楽曲がCMで使われていることは知っている。全国的に知名度の高い彼女だが。作曲のスピードが遅いことで有名である。
――なんとか間に合うようにしなければ。
保住はそんなことを考えてパソコンに視線を戻した。
***
翌日。市民合唱団からは「早く楽譜をください」の要望を受けた。それはそうだ。
プロでもない。合唱団の出番も多いオペラだから、早めに練習に取りかかりたいのだろう。
「出来上がっている曲からで結構ですから」
市民合唱団の要望は切実だ。
「出来上がった分だけでもいただいてこないと、不満が出るな」
神崎の自宅に向かう車中、保住はため息だ。
「局長には、大成功をと啖呵《たんか》を切ってしまいましたからね。失敗は許されませんね」
田口の言葉に、保住は苦笑した。
「あの人のことは、どうでもいいのだろう? 田口は」
「正直そうですね。ただ、失敗はしたくない。いや、しません。おれたちの仕事へのプライド、ですよね?」
「その通りだな」
町中のマンション。近くの有料駐車場に車を入れて、歩いていくと渡辺が立っていた。
「お待ちしていました」
「お待たせしました。すみません。市民合唱団も不満だらけでした」
「でしょうね。早く楽譜が欲しいですもんね」
「できあがっているところから、もらっていきますか」
「ですね」
渡辺と保住の後ろをついていく。エレベーターは十二階に止まった。
「神崎先生。渡辺です」
『どうぞ』
中から操作してくれたのだろう。自動でロックが解除される音がする。渡辺はノブを回して、「お邪魔いたします」と挨拶をすると、足を踏み入れた。市内でもグレードのいいマンションだ。
しかし、外見はスタイリッシュで美しい外観だが、神崎の部屋は足の踏み場もないくらいの荷物だった。
「ごめんね。歩く場所なくて」
奥の部屋からよく通る鈴のような声が響く。
「先生、今日は係長も一緒です」
渡辺は荷物をかき分けて中に入った。保住と田口もそれに続く。神崎が作業場にしている部屋は、かろうじて住める形だ。
窓が大きく取られており、梅沢が誇る山が一望できるよい景観だった。
肩下までの髪を頭のてっぺんで丸め、緑の縁の眼鏡をずり下げて振り向いた神崎は、保住と田口を見ると笑顔を見せる。
「あら。係長さん。お久しぶりですね」
「神崎先生。いつもお世話になっております。なんだか急かすような形になってしまって、大変申し訳ありません」
「やだやだ。いい男に笑顔向けられると創作意欲出ちゃう!」
「すみませんね。いい男じゃなくて」
渡辺は苦笑いだ。
「渡辺さんは、いい人って感じだもんね」
彼女は冗談を言うが、すぐにため息を吐く。
「ごめんね~。なんか、いいインスピレーションがなくて。行き詰ってんの」
「そうですか。なにかを生み出す仕事とは辛いものなのですね」
保住は頷く。
「でも、それで出来ませんでしたってわけにはいかないしね~」
「先生は行き詰った時はどうされるんです?」
「う~ん……男遊び? かな?」
渡辺はぎょっとしたように目を見開く。田口も目を瞬かせた。しかし保住は苦笑いをするしかなかった。
「そうですか」
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