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第12章ー第103話 傷心の犬

「田口、大丈夫なのでしょうか」  谷口の言葉にはっとして顔を上げる。 「本当だ。食われてないといいけど」 「変り者だからな。先生は」  矢部や渡辺のコメントに、保住はため息を吐いた。なぜあの時、すがるような目の田口を置き去りにしてしまったのか。自分でもよくわからない。「思い切ったことをするな」と澤井には呆れられた。  あの時と同じざわざわが、胸を支配した。  ――そう、教育長の研修会の時とだ。  佐々木に言い寄られて顔を赤くしている田口を見て、胸がチクりとした。あの時と同じだった。  神崎に腕を組まれてラブコールされている田口。男だったらまんざらでもないはずだ。男と女が時間を共にすると言うことは、なにもないと言い切れないわけで、嫌な気持ちになるのに、なぜあの時、田口を置いてくると決断してしまったのか。  いつもだったら費用対効果をよく検討し、リスク管理も行った上で様々な判断を下すのに、今回の決断だけは根拠も理由もない。もっともらしく言っていても、嫌な気持ちの理由もわからない。田口を置くと決断した理由もわからない。  全てが曖昧だったのだ。感情も判断の根拠も、こんなに曖昧だなんて初めてだ。  何度かメールが来ているが、返す気になれないのも、どうしてなのか、わからなかった。 「係長、聞いていますか?」  渡辺が心配そうに保住を見ていた。 「は、すみません。なにか?」 「田口の様子、見てきたほうがいいでしょうか」  保住が口を開く前に、矢部が「怖い」のジェスチャーをする。 「怖いな〜。どうするんだよ。イチャイチャの最中だったら」  矢部の言葉に、かちんと来る。保住は「おれが行ってきます」と言った。 「係長が?」 「今日は県庁に寄る用事があるので、その足で、直帰しがてら様子を見てきます」 「しかし」 「大丈夫です」  保住がきっぱりと言い切るので、これ以上異議を唱えるものはいない。一同は仕事に戻った。 *** 『どうするんだよ。イチャイチャの最中だったら』  矢部の言葉が頭から離れない。県庁で菜花(なばな)と、オペラへの協力方法の確認に行った帰り、神崎の自宅の前に立っていた。 「はあ……」  気が重い。チャイムを鳴らすと、男の声が響いた。 『神崎です』  十日ぶりの田口の声。彼は明るい声色だ。なんだか面白くない気持ちになった。 「保住だ」 『あ! 係長ですか。開けます』  間もなく開錠された扉を抜けて、保住は十二階に上がった。すると、彼はエプロン姿で、にこにこ笑顔で出迎えてくれた。  「お疲れ様です」  思ったよりも元気。そして――楽しそう。保住はますますご機嫌が悪くなった。 「随分と楽しそうだな」 「え、そうでしょうか?」  中に入ると、先日来た時にあったゴミの山は半分以下に軽減していた。 「片付け大変ですが、もう少しです。――神崎先生、係長です」  田口に声に神崎が振り向く。彼女もまた先日来た時とは様変わり。髪もきちんと一つに束ねている。 「あら、すみません。まだ終わらないんですよ」 「いえいえ。結構なんですが。田口を預けていたので、なにか失礼なことでもしていないかと見に来たところです」  田口は恥ずかしそうに恐縮している。神崎は笑顔だ。 「銀太、すっごくよく働いてくれて。後は、私の誘いに乗ってくれるといいんだけどな」 「先生! だから。おれは……」 「ね」  保住は目を細めて田口を見た。 「いえ。そう言うのではないんです。……係長! あの……」 「失礼がないなら結構です。このまま、よろしくお願いいたします」  保住はそれだけ言うと、立ち上がった。 「やだ。お茶飲んで行ってよ」 「結構です。創作活動を進めてください」  部屋を出ていく保住を、田口が慌てて追いかけてきた。 「係長!」 「楽しくやっているようで安心したぞ。よく励むように」 「そんな棘のある言い方ないですよ。怒っているのですか?」 「特段、怒るようなことでもあるまい」  玄関先で保住の腕を摑まえた田口は、必死の形相だった。 「怒っていますよ。おれ、なにかしましたか? 結構、頑張っているつもりですけど。ご期待に沿えないことでもありましたか?」 「そんなんじゃない」  ――そんなことではない。 「ただ――」  ――違う。 「曲が出来上がらないからだ」  ――そうじゃない。 「お前が付いていながら」  ――そんなことを言いたいわけではないのに。 「もっと先生の創作意欲を高められるように、お前を置いたのだ」  田口は保住を見ているのに、保住は田口が見られなかった。 「さっさと仕事をやれ」 「それは、どういう意味なのですか?」  田口の表情が翳る。 「保住さん」 「田口、仕事の話中だ。名で呼ぶな」 「いいえ。違います。そうではないのでは?」 「なに?」  田口の保住の腕を掴む手に力が入る。 「なにを怒っているのですか。おれがここにいるのがそんなに気に食わないのですか? あなたが指示したのですよ。だから、おれは……」 「だからなんだ。仕事をしろと言っているのだ」 「しています」 「なら、なぜ楽曲が仕上がらない」 「それは……」  ――田口。そうじゃない。違うのに。 「もっと本気で先生のをしろ」 「保住さん! それって……、本心で言っているのですか?」 「そうだ」 「違うでしょう。そんなことを言う人ではない」 「違う。おれはおれだ」 「保住さん」 「帰る」  ごちゃごちゃだ。  ――なんだ。この気持ち。  むしゃくしゃして、コントロールできない。保住は田口の手を振り払うと歩き出した。 「保住さん!」 「どうしたの?」  中から神崎が顔を出す。田口がそれに気を取られている隙に、保住はエレベーターに乗ってさっさと消した。 *** 「あ~あ。痴話げんか? 銀太の好きな人って係長さんだったんだ」 「な!」 田口は顔を真っ赤にした。 「わかりやすいね」  神崎は笑う。 「係長さんも銀太のこと好きみたいじゃん」 「そんなはずは……」 「そうかな? やきもち焼いちゃって。銀太取られたと思ってんじゃない。可愛いところあるのね。あの人」 「いいえ。あの人に、特定の好きな人はいないみたいです」 「そうかな~……。まあ、いいけど。ふふ、面白いの見ちゃった! あらやだ!! なんだかちょっといいアイデア思い浮かんじゃった!」  神崎はそう叫ぶと、ダッシュで席に戻る。 「やばいやばい! いい音楽下りてきた!」  ――それは良かった。それはいいのだが。  田口はしょんぼりとした。自分なりに頑張っていた。神崎の頭を洗ってあげたり、慣れない食事作りをしてみたり。再三の彼女の誘いを断って、田口なりに職務を全うしようと努力していたのに。保住の冷たい視線。 『神崎と関係を持て』  そう聞こえた。 「涙出そう」  田口は目元をごしごしとこすってから大きくため息を吐いた。

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