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第12章ー第104話 見透かされる心

   ――馬鹿か。馬鹿だ。  神崎の家を飛び出した。家に帰る気にもならない。直帰(ちょっき)すると言ったが、職場に戻ることにする。仕事は溜まっているのだ。田口がいない分、サポートしてくれる人がいない。渡辺や矢部や谷口も頑張ってくれているのはわかるのだが、違うのだ。彼らでは、田口の代わりは出来ない。  事務所には誰も残っていなかった。くもりガラスから覗く真っ暗な事務所を見て、ノブに手をかけると、澤井の声がした。彼は帰り支度だった。 「なんだ。今日は店じまいかと思ったのに」 「県庁に行ってきました。もう少し仕事をしたいのですが」 「お前には残業代は出さん。仕事をしたいものを止めたりはしない」  係長になると残業代は出ない。澤井はそれを言っているのだろうが、今の彼にはどうでもいい話だ。 「そうですか。それでは。お疲れ様でした」  保住は頭を下げて事務所に入ろうとする。しかし澤井はそこから動かなかった。 「楽曲はどうなった。お前の片腕の田口が張り付いているのだろう? 職員一人、こう数日も取られると洒落(しゃれ)にもならん。早急に何とかしろ」 「まだのようです。経過を見に行ってきましたが」 「見に行ったのか? 気になるか。そうか」 「それは気にもなります。楽曲は事業の要で……」  視線が泳ぐ。澤井は愉快そうに笑った。 「そうではあるまい。気になるのは田口だろう?」 「な……」 「お前が口ごもる様は、なかなか見られないからな。一興(いっきょう)」  言い返す気力もない。保住は黙り込んだ。 「田口は先生とよろしくやっていたのか? 慰めてやろうか。時間を取ってやってもいいぞ」 「結構です。お気持ちだけいただきますよ」  澤井から視線を外した瞬間。ふと彼の気配に顔を上げたが遅い。  澤井の大きな手がノブを掴んでいた保住の手を握り、強引に引き寄せる。方向を変えられたかと思うと、古ぼけたドアを背に澤井が唇を重ねてきた。 「離してください」  軽いキスはすぐに止む。保住は顔をそむけた。 「人の温かさや、繋がりを知らなければ、こんな喪失を味わうこともないのだ。保住。田口に近付くのは止めておけ。傷付くだけだ」  「なにを……」 「お前はずっと一人で来たのではないか。自分の実力だけを信じて。またいつものお前に戻ればいいだけの話だ」  耳元で囁く澤井の言葉は悪魔の囁きのように、心に染み込んでくる。 「お前の理解者は、おれだけでいい。そうだろう」 「な、なにを言っているのか、意味がわかりません」 「素直になれば可愛がってやる」 「一度、そうなったからと言って図に乗るのはやめてください。あれは、父の代わりとして――」 「そうだったな。しかし、おれは言ったはずだ。お前はお前だったと理解したと」 「では……」 「お前の父は父。お前はお前。そのお前を抱いてやろうと言っているのだ」 「ふざけないでください。人を愚弄(ぐろう)するのもたいがいにしろ!」  保住は乱暴に澤井の拘束から逃れようとするが、澤井は余裕の笑みで保住を見下ろすだけだ。 「怒るな。怒るという感情も田口と出会って知ったのだろう? イライラしたり。もやもやして」 「それは……」 「仕事のことではよく怒っていたが、人間関係で悩むお前は見たことがない。愉快だな」 「あなたは、どうしたいのですか? 田口を呼びつけて執拗にいびったり、おれにこうして触れてくる」  ――澤井の気持ちがわからない。  澤井の口元が歪んだかと思うと、ノブが回された。ドアに体重を預けていた保住は後ろに倒れこむ。尻もちをつくかと思った瞬間、腰に回った太い腕に支えられた。  そして、そこにあった田口のデスクの上に押し付けられる。彼のデスク上に載っていた書類が一気に床に散らばった。 「澤井っ!」 「おれのしたいことはこれだ。もう一度、抱かせろ。――保住」 「な……あなたは。ここは職場ですよ」 「構わん。そんなことを気にするような性格ではない。お前は時々、小さい事にこだわる。それは止めたほうがいいだろう」 「そういう問題ですか!」 「そうだな。番犬もいないことだ。今がちょうどいい」 「澤井!」  がたがたと暴れても澤井の拘束は固い。田口と約束したから。本意ではないこういう関係はもう持たない。そう決めている。  ――だから。……だけど? 『銀太』  神崎の甘えるような呼びかけに、田口はくすぐったそうにしていた。 それはそうだ。  いくら、田口と親しくなってもそれはそれだ。田口は安定感のある男だ。自分とは違う。きっと、いい夫になり、いい父になるに違いない。  自分だけ、きっと――置いていかれる。  そんな気がしてならないのだ。なぜそんなことを思うのかもわからない。  真っ暗な事務所。廊下の非常灯の灯りが、くもりガラスから洩れてくる。見開かれた(まぶた)痙攣(けいれん)しているのがわかった。保住の背中に指を這わせていた澤井は笑う。 「お前は田口が好きなのだろう――?」 「好き……?」 「そうだ。好きだ」 「好きとはなんなのでしょうか……」 「そうだな。部下として可愛いとか、友達として大事とか、そういう好きではなかろう」 「そういう好きではないとは?」  澤井の指が保住の唇をなぞる。身体が震える。大人しくなった保住の顔を覗き込んで、澤井は続ける。 「男と女の恋心だ」 「恋? 恋心……」 「欲しいだろう? 田口が。違うか。おれとしていること。田口ともしてみたくはないか」  ――わからない。  軽く触れる唇の間から洩れる吐息。 「わからない……」 「考えろ。想像してみろ。お前は田口が欲しいのだ」 「田口が?」  ――田口は後輩で。部下で。そして、友達で……。だけど。田口が誰かと仲良くするのは面白くなくて。 「面白くない?」  ――そうだ。佐々木教育長の時もそう。女性と仲良くしている田口を見ていると腹立たしい。  ――これは。 「嫉妬だ」 「嫉妬?」 「田口が他の女といちゃついているのを見るのが辛いのだ。お前は」 「そうなのでしょうか……」  ぼんやりといた虚ろな瞳は伽藍堂(がらんどう)だった。それでも澤井は容赦ない。保住のネクタイを擦りぬくと、ワイシャツのボタンを外す。 「田口の名前でも呼んでみるがいい。助けは来ないぞ」  涙がこぼれた。  ――辛い。切ない。  生まれてこの方、味わったことのない感情だ。手を伸ばしても、そこにいるのは違う人間だ。保住の手を握った澤井は囁く。 「観念しろ。田口は来ない。お前は隙だらけだ。仕事も、奉仕もよくやってくれる人形だ。おれのものになっておけ。悪いようにはしない」  ――悪いようにはしない? 人形? そうなのか。  ずっと思っていた。自分で自分が見つからないまま、こうして生きている。誰かがそれを与えてくれるなら、それをそのまま受け入れてしまう。弱い自分がひょっこり出てくると収拾がつかない。  澤井は知っている。保住の苦手なところや、痛いところ。なんでも知っている。精神的な攻め方も知っている。じわじわと投げかけられる言葉一つ一つが、精密機械の誤作動を招く仕掛けのようだった。 「優しくしてやる。守衛に見つかるとまずい。黙っておけよ」  澤井の囁きが耳を掠めた。

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