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第12章ー第106話 代償

 それから三日後。空いている田口の席が当たり前のようになった頃。 「係長、やっぱり田口を呼び戻しますか? 楽曲も要ですけど、人がいないのは結構、堪えます」  渡辺の申し出は、彼が主語のように見えるが、本当はこの人の為。彼は当事者である保住を見つめる。目の下に隈を作っている保住は、渡辺の言葉に顔を上げた。 「戻す気はありません。申し訳ないですが、もう少し堪えてください」 「おれたちはいいけど……」と矢部と谷口も顔を見合わせた。  田口に依存していた部分が多い。彼がいなくて滞っているのは保住その人だ。毎晩残業しているようだし、珍しく余裕がないようだ。 「保住、ちょっと来い!」  それに、この呼び出し。 「聞こえんのか!」 「はい」  仕事も途中に澤井に呼ばれて席を立つ。悪態や嫌味も出てこないのか、彼は黙って首をかきながら事務室を後にした。それを見送ってから渡辺、谷口、矢部は顔を見合わせた。 「かなりのオーバーワークじゃないっすか」 「だな」 「結構、頑張っているつもりなんですけど」 「おれたちがやっても結局、見直作業は係長だからな。時間がかかる」  渡辺はため息を吐いた。  ――田口が来る前はこんなだったか? 思い出せない。だが、ここまで酷かったかな?   保住の能力が下がったのか。いや一度覚えたものを失うと、代償は大きいのだろうな。 「まだかよ。神崎先生……」 *** 「お前らしくもない。こんなミス」  澤井は書類を目の前に出す。 「一つくらい大目にみてくださいよ」  めんどくさそうに、保住は書類を持ち上げた。日付ミスなんて、こんなの初めてだった。 「神崎先生は、どうなっている」 「わかりません」 「なぜだ」 「把握していないからに決まっているじゃないですか」  開き直られても困るというところか。 「なぜ把握しない。職務放棄か」 「田口に任せています」 「係長職は把握する義務がある」  澤井はため息を吐いた。 「田口はお前の急所だな。お前をダメにするには、あいつをどうにかすればいいと言うことだな」 「そんなことは……」  保住は書類を握る。 「あいつは職務を全うしているだけです。問題ありません」 「問題があるのはお前だろう」 「おれも問題があるとは思えません」  澤井は立ち上がって保住の目の前に立った。 「お前、寝ていないだろう。健康管理できない奴は問題山積だ」 「ご心配なく」 「保住」 「失礼します」  いつもの掛け合いも続かないか。澤井が退室しようとする保住を呼び止めようとした時、突然田口が顔を出した。 「出来ました!」 「田口」 「係長、仕上がりました。オープニング序曲から、最後のエンディングまで全てです」  嬉しそうにしていた彼だが、保住の顔を見て、一瞬表情を翳られた。 「係長――?」 「見せてみろ」  澤井の声に、保住に頭を下げてから田口は中に入ってきた。 「こちらです。おれにはよくわかりませんが、終わったようです」  澤井は楽譜をペラペラとめくり、そして頷いた。 「どうやら本当らしい。至急、製版会社に回せ」 「了解です。この足で行ってきます!」 「原稿はこっち持ちだ。何部かコピーしていけ」 「わかりました」  田口はバタバタと局長室を後にした。合わせる顔もない。保住はじっとしていた。 それを見ていた澤井は保住に声をかけた。 「――声かけてやれよ。お前が押し付けた無理難題をこなしてきたんだぞ」 「すみません。言葉が見つかりません」 「そうか」 澤井の部屋を出る。  田口に出会ってしまったら、言葉が出なかった。まさかの――田口への罪悪感が、胸を締め付ける。田口に甘えて、酷い有様だ。  ――最悪。最低。  結局、田口は定時を過ぎても帰らなかった。 「そう。わかった。お疲れさまな」  谷口は電話でなにやら話していたが、受話器を下ろしてから保住を見る。 「依頼に時間がかかるそうです。何時になるかわからないので直帰させちゃいましたけどいいですか?」 「ありがとうございます」  ――田口が戻ってこない。  それはそれで、内心ほっとしてしまうのは気のせいではない。顔向けできない。それが本音。時計の針は六時を回っていた。 「帰ります」 「珍しいですね。今日は」  渡辺は笑う。悪い意味ではないらしい。彼は「係長は仕事し過ぎですからね」と付け加えた。 「そんなことは。効率が悪いのです。どうしたものか。元々こんなタイプだから気晴らしの方法も分からないし」 「係長、こういう時は飲み会ですよ」  矢部はすかさず言った。 「しかし」 「大丈夫ですよ。田口を先生に預けちゃったから気が引けるんでしょう? あいつ、そんな奴じゃないし」  谷口は慰めようとしてくれているようだ。 「ありがとうございます。みなさんに気を使わせました。帰ります」  保住は頭を下げてから事務所を後にした。 それを見送って三人は顔を見合わせた。 「亡霊みたいだな」

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