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第13章ー第108話 日常だけど非日常
「おはようございます」
翌日。田口は久しぶりの職場に顔を出した。保住と喧嘩別れをしてしまったおかげで、どうしたものかと悩みもあるが、やはり久しぶりの職場は嬉しいものだった。
「お疲れ」
「頑張ったな」
谷口や矢部は、嬉しそうに田口を迎え入れてくれた。
「二週間、掃除や洗濯ばっかり。主婦の気持ちがわかりました」
「そうかそうか」
きょろっと視線を巡らせると、保住はまだ来ていなかった。
「あ、係長?」
視線を巡らせた仕草に、意図を理解してくれた渡辺が声を上げた。
「お前いないし。一人で仕事背負い込んで疲労困憊だ」
「そんな……おれなんかいなくても、係長は一人でもへっちゃらなんじゃ――」
「そうでもないんじゃない? 最近は、お前に頼っている部分も多いし」
「役に立ってたんだな。田口は」
「そ、そうですか? 嬉しいです!」
『お前なんか二週間いなくても平気だ』なんて言われたほうが、ちょっとへこむ。
必要とされるということは嬉しいことだった。
「昨日も残業しないで早く帰ったし。大丈夫かとは思うけど……」
そんな話をしていると、保住が顔を出した。
「おはようございます」
田口は頭を下げた。
――避けられるだろうか?
先日の口論が尾を引いているのだ。しかし、保住は田口の前に躊躇することなく歩み寄った。
「二週間大変だったな。楽曲の仕上がりまで持って行ってくれてありがとう」
「いえ、あの。――仕事ですから」
「しばらく間が空いてロスがあるが、谷口さんがフォローしてくれていた。よく聞いておけ」
「はい」
保住はそれだけ言うと自席に戻った。
――あれ? 変なの。
田口は目を瞬かせた。
「田口、戻ってきて良かったですね! 残業からも解放されます」
渡辺の言葉に、保住は「そうですね」とだけ答えた。
「係長に褒められたな! 良かったじゃん。頑張った甲斐があるな」
谷口はそう言いながら、田口の仕事の書類を取り上げる。不在時のことを説明をしてくれるつもりの様子だが、田口は腑に落ちない。
――怒っている?
全然褒められていない。保住の笑顔がないのだ。視線も合わなかった。
――もしかしたら、まだ怒っているのかもしれない。
保住の目の下には、寝不足の様相を呈するように、クマができている。顔色も悪かった。しかし、今日は珍しくネクタイがきちんとおさまっていた。
――変だ。
二週間で、なにかが変わった。みんなは気がつかないのだろうが、田口にはわかる。いつもの保住ではない。谷口の話を聞きながら、田口はそう思った。
***
神崎の楽曲は素晴らしい出来になった。印刷会社の校正担当からも「早く音にして聞きたい」と言われたくらいだ。田口の働きもあり、なんとか締め切りギリギリで楽曲は仕上がったのだ。
「市民合唱の団長さんと七時にアポがあります」
矢部が報告すると、次々に谷口に続き、田口が報告を行った。
「歌手には昨日郵送しました」
「オーケストラの譜面は来週になるようです。できしだい送付いたします」
「あとは、練習が予定通りでいいのかの確認ですね」
報告を聞き終えた保住の問いに答えたのは、渡辺だった。
「練習予定は譜面と一緒に同封予定です」
オペラの準備は着々と進んでいた。この調子なら、万事うまくいく。田口はそう思っていた。しかしそんな中、一本の電話が鳴った。
「はい、お電話ありがとうございます。梅沢市役所文化課、田口です」
すかさず田口が受話器を持ち上げた。
『あ、あの。御影 交響楽団マネージャーの丹野です』
「あ、丹野さん、いつもありがとうございます!」
田口の声色とは裏腹に、丹野の声は暗い。
「いかがされましたか?」
『あの、大変お伝えしてにくく、申し訳ない限りなのですが……』
丹野の話を一通り聞いた田口は、判断しかねる事案に、心臓が鳴り出した。
――これは……。
「少々お待ちください。あの、私ではお応えし兼ねますので。はい、申し訳ありません」
田口の言葉に安堵感が漂っていた空気が、緊張したものに変わる。
「あの。係長。御影交響楽団の丹野さんなんですが――」
田口の声に保住は顔を上げた。
「出演をキャンセルしたいと言っています」
「は?!」
「ええ?!」
「嘘でしょ?!」
渡辺、矢部、谷口は声を合わせて絶句。保住は黙って受話器を持ち上げて、外線を引き継いだ。
「お待たせいたしました。保住です。――ああ、丹野さんお久しぶりですね。内容はお聞きしましたが、事情を知りたいものですね。ええ、どうぞ」
「ふんふん」とか、「なるほど、それはそれは」と相槌を打つ彼の様子を固唾を飲んで見守る。
「そうですか。致し方ありませんね。いえ、とんでもない。比較的、早く教えていただいたので手の打ちようはあるかと思います。お電話ありがとうございました」
保住はそう言うが、顔色は悪い。受話器を置いて、彼はため息を吐いた。
「――ダメだな。御影」
「一体どうしたと言うのですか?」
渡辺の問いに保住は答える。
「新しい首席奏者 の選定で、団内が分裂したらしいです。とても、新しい楽曲に取り組めるような状態ではなく、三月までに間に合わせる保証がないので辞退するとのことです」
「そんなことあるんですか?」
谷口は目を丸くする。
「おれもオーケストラの事情はよくわかりませんけど、色々とあるのでしょう。ギリギリで出来ないと言われるよりはマシですが、これから探すのは結構、厳しいですね」
「どうしましょう」
椅子に寄りかかり、頭の後ろで手を組む。保住の考えている時のくせだ。しばらく一同は黙り込んでいた。音楽に詳しかったら、なにかいいアイデアでも湧くのだろうけど……。
田口は焦っていた。こんな非常事態に役に立たない自分が不甲斐ない。そのうち、ふと保住が席を立つ。
「係長?」
「局長のところに行ってきます」
「なにか思いついたんですか?」
「いや、少しだけ?」
彼は微笑して出て行った。
「なにか思いついたんだな」
「あの顔は」
どんな方法かわからないが、こんな場面で少し考えただけで、なにか思いつくのだから、すごいと田口は思うばかりだ。
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